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#7-1 馬と歩く風景

 千葉家住宅は、暮らしと自然が有機的に結びついていた時代を体現する曲り家です。現在建物の改修工事が進められていますが、敷地内にとどまらず、集落一帯が千葉家住宅の立地にふさわしい環境となる地域像を模索しています。今回は、綾織観光の起点のひとつとなる「岩手二日町駅」から「千葉家住宅前」までの約2.8㎞の道程を馬とともに歩きました。水田地帯、上綾織の農村集落、山谷川、畑、民家、マンサード、それらを取り囲む森や山々などの景観を「歩くスピード」で体験し、馬のいる集落を具体的にイメージしてみました。馬と暮らしてきた遠野の文化や景観を、新しい仕組みで継承する方法を考えています。

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千葉家と馬の未来

 かつて遠野では、冬の間、曲り家とよばれる住居でひとつ屋根の下に人と馬が暮らしていました。馬房では馬の糞と藁を踏み込ませ、それが春先からの農耕の良質な堆肥になりました。馬は牛に比べ消化吸収効率が悪いため、馬糞には植物質が多く含まれています。そのことが寒冷地での堆肥づくりの生命線になっていました。また、短い温暖期に効率よく農作業をするためには、牛よりも機敏な馬のほうが適していたようです。馬は堆肥の生産装置であり、耕作のための貴重な動力源でした。林業においては、馬で木を運ぶ「馬搬」がありました。また遠野は、三陸沿岸と内陸の北上川流域を結ぶ交通の要所で、「駄賃付(だちんづけ)」とよばれる馬による運送業が農民の生活を支える貴重な収入源となっていました。明治に入ると、富国強兵による軍馬整備にともない、国策として馬の増殖や改良が行われていきます。遠野は町ぐるみで品種改良に乗りだし、馬産が組織化してきました。産馬組合、産馬議会が発足し、馬の戸籍=馬籍が設けられます。人の間引きが珍しくなかった時代にありながら、馬は生前から管理され、手厚く守られました。このようにして、中世の時代から続く馬産は、近代になっても遠野の生業であり続けました。 
 しかし、第二次世界大戦後の急速なモータリゼーションにともない、あらゆる局面で馬の存在意義が消えていきました。流通は自動車やトラック輸送に置き換わり、馬耕の代わりにトラクターが出現し、林業においても大型重機が開発されていきます。それまでは馬糞による有機農業をせざるを得なかったわけですが、窒素肥料やリン酸肥料など成分分けされた化学肥料を使う農業が主流になりました。そうしたなかで彼らの存在意義の変更が起きていきます。
 働く馬が減少していくなかで、レジャーとしての乗馬が広がり、国産乗用馬の需要が高まりました。遠野では昭和46年に「遠野市乗用馬生産組合」が組織され、農用馬や乗用馬の種付け、育成調教の事業体制が強化されます。それは遠野における農業所得の向上と、広大な牧野や草地資源の有効活用を目指す施策でもありました。平成10年には、日本中央競馬会や岩手県競馬組合などの支援を受け「遠野馬の里」が整備されました。競走馬のトレーニング施設がつくられ、毎年秋に乗用馬の競りが行われています。大きく見ると、このような流れがあるなか、流鏑馬や伝統行事における馬事など様々な取り組みが続けられています。 

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 いま、遠野に限らず日本各地で地域の資源に目を向け、かつて行われてきたことをもう一度見直そうという動きが起きています。固有性の再評価です。クイーンズメドウ・カントリーハウスでは20年ほど前から馬との新しい関わり方を模索しています。ひとつの仮説として僕らが取り組んでいることは、「利用価値を追求しない馬が価値を持つ時代があってもよいのではないか」というものです。
 「馬」という文字を語尾につけた日本語は、軍馬、農耕馬、馬車馬、競走馬、乗用馬などいくつかあります。英語由来だとセラピーホース。これらは、人が馬に与えた役割を示しています。馬の〈機能的〉〈用途的〉〈道具的〉側面です。どのように利用するかを表現しています。では、「そうではないものとは何か?」というと、今日皆さんがジンガ郎と一緒に歩いたようなことです。乗馬をするでもなくただともに歩く。そのとき人によっては、心が生き生きするとか、沸き立つとか、楽しいと感じたのではないでしょうか。馬の存在が根っこの部分で保ち続けている〈野生〉。クイーンズメドウでは、その部分にやや特化したかたちの接し方をしています。

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 例えば、基本的に馬房での飼育はしていません。馬房の出入りを自由にさせると、彼らは昼も夜も、雨の日も風の日も外で過ごします。真冬の季節にあっても、ほかの季節と変わることなく、日がな黙々と草を食み続けています。冬毛の被毛と皮下脂肪に加え、草を常時食み続けることによる発熱によって耐寒性を保ち続けるのです。鞍やハミといった道具も使いません。冬の時期、裸馬にまたがると衣服を通して暖かさが伝わってきます。 

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 人は馬という生き物の、特に並外れたパワーとスピードに魅力と有用性を見出し、長い時間をかけて「どうすれば」この動物たちと気持ちが通じ、しかも自分たちの言うことを聞いてくれるだろうかと工夫を凝らし、方法を編み出し、道具を発明していきました。文献によると、およそ五千年前からそのような関係が始まったとされています。馬との関係性の模索を抽象的な言葉で表すと〈自由〉と〈抑制〉の問題に行き着くかと思います。有用性を引き出すことは、馬の野生を〈抑制〉することにほかなりません。これが五千年間の人と馬の関係のメインストリームでした。けれどもここ数十年、そうではない流れが世界中で始まっています。「どうやって」より前に「彼らは何者か」「どのような存在か」ということについて問い続け、そこから関係を築き上げようという流れです。 
 かつて馬を飼育していた年配の方の話を聞くと、昔は、秋、食べる草が寂しくなってくると放牧地から馬たちが勝手に歩いて降りてきたものだといいます。また、車が通る道がなかったため、みんなで歩いて高原まで行き、自分の馬を探して一緒に帰ってきたそうです。いまはそれぞれの農家や馬の持ち主が専用のトラックに乗せて連れ帰るのが一般的です。数年前からクイーンズメドウでは、昔のスタイルで山上げや山下げをするようになりました。標高差500m、13 kmほどの道のりです。歩いて行う山上げ、山下げの復活は「みんなでやりたい行事」になってきました。とても新鮮で楽しかったので、他のひとたちにも味わってほしいとツアーのようなかたちで実施しています。今年は牝馬4頭に対して、20数人が参加しました。参加した人たちは「もっと馬の数を増やしたいね」とか「馬と気を合わせて歩くことがこんなに楽しく素晴らしいことだとは思わなかった」と口々に語ります。

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 馬たちと暮らすことは、インスピレーションに満ちた特別な時間を生きるということでもあります。大きな世界や知らない世界へ通じる扉があることを教えてくれます。すべての動物たちが共有している言葉と詩的な感性の世界は確かに存在し、その感性的な時間と空間を再発見する作業は、とても特別でユニークな時間となりえると思います。この関係は、人と馬の古くて新しい、そしてこれからの時代にあってとても大事なタイプの関係性ではないかと思っています。
 日々のトレーニングでは道具を使わず一緒に歩き、走り、止まる。彼らだけ走る。ジャンプするといったことも行います。両者のなかで何かが通い始めると、互いに相手を中心軸にして踊るような、舞うような、濃密で激しくときに静謐な時間が始まります。そこでのやり取りは想像以上に奥が深く、一緒にいられる領域をつくっていく試み自体が豊かな経験であり、面白さになり、認識の幅を広げる時間になります。初めての人たちとも少しずつ共有できれば、ツーリズム的な世界観のなかでも意味を持ってきますし、反復可能な経済的な価値を生むことにもなると思います。「レッスン」でもないし、「◯◯体験」のようにも気張らず、群れの一員としてただ一緒にいられる状態。馬との接触の仕方のタイプとしていろいろなバリエーションがあるなかで、このような関係性を含んだ千葉家と馬の未来であれば素晴らしいなと思います。
徳吉英一郎(ノース)

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