反時代的考察――野球という”生”をめぐって

 はじめまして。このノートを開いていただき、ありがとうございます。

 このアカウントでは、野球をテーマにしたエッセイのような何かを、不定期で更新していこうと考えております。何卒おつきあいください。

 筆者は、阪神タイガースファン歴14年の25歳で、現在は人文系の大学院で研究をしております。メジャーリーグや、高校野球をはじめとするアマチュア野球には疎いのですが、プロ野球についてはそれなりに熱心に追いかけてきました。最初の投稿ということで、このアカウントが何に重心を置いているのかを、簡単にお話しできればと思います。

 試みに、一昨年日テレ系列のプロ野球中継を見ていたときの違和感から始めましょう。それは、「AIキャッチャー」です。現楽天所属の炭谷銀次郎捕手(炭谷といえば――選手名は敬称略することがあります。悪しからず――、高卒新人で開幕マスクを被るという史上2人目の快挙を成し遂げたことで知られますが、ロッテの松川は3人目になりそうですね。これはとても楽しみな反面、ロッテの捕手陣にはどうにか奮起してもらいたいものです。)のリードが、日テレ系列の提供するAIキャッチャーと驚くほど一致するということで、ネットが盛り上がっていたことをよく覚えています。AIキャッチャーとは、膨大なデータをもとに、配球パターンを予測するというもので、そのパターンと現実の捕手のリードが違えば、自ずと「裏をかいた」ことになるというものでした。

 この日、阪神の先発は、高橋遥人でした。2020年シーズン初登板で、チームは連敗中、相手は強力巨人打線、一方阪神打線は低調。これほど悲惨な状況において、高橋は責任を一挙に引き受けてマウンドに立つ。阪神ファンからすれば、怪我と復帰とを繰り返す高橋(依然として高橋は怪我が多いもので、困ったものです)の初登板というだけでも不安がぬぐえない。そうした試合において、突如として登場したのがこのAIキャッチャーでした。(AIキャッチャーの導入がこの日初めてだったのかは覚えておりませんが、すくなくとも私ははじめてそれを見たと記憶しています。)

 一球にかける――「懸ける」とも「賭ける」とも言える。AIキャッチャーという企画は、その重みをどれほど理解しているのだろうか。結局この企画は定着しなかったようだが、それは当然だろうと思う。投手は、あまりにも重たい責任を引き受けて、白球を投げ込むのであり、捕手もまたそのボールを確実にミットに収めることができるように、リードを組み立てる。それを膨大なデータで量的に還元することに、いかなる意味があるのだろうか。(阪神ファンらしく皮肉っておけば、藤波に対するリードと西勇輝に対するリードは、ゾーンの分割という点でも全く異なるのであり、シチュエーションに限定してリードをパターン化すること自体、意味があるとは思えない。)

 量に還元するという点では、近年はやりのセイバーメトリクスもまた、その潮流とは無縁ではない。とはいえ、私はセイバーメトリクスに対して異議を申し立てたり、批判をするつもりは毛頭ない。というのも、それを批判する知識も気力も持ち合わせていないからだ。(気が付いたら敬語はどこへやら。この方が話しやすいので、以下こんな感じでお付き合い願います。)セイバーメトリクスで野球を見ること自体、視野を大幅に広げ、投球の「テンポ」や試合の「流れ」といった、非合理的な要因を退けて野球を合理的に把握することができる点において優れている。そうすれば、練習もより効率的になり、年俸の査定なども合理化できるだろう。そうした流れを、筆者には否定する気は一切ない。(足は速いのに守備が下手、というイメージのある選手がいるとして、セイバーメトリクスはそれを単なるイメージではなくある種のエビデンスとして示すことができる。これは革命的である。筆者は、セイバーメトリクスの知識が本当に皆無なので、この理解自体にすら自信はないのだが……。)

 このアカウントで目指すのは、むしろそうした潮流において見落とされる「テンポ」や「流れ」といった、一見あやしげにも映る非合理的なものを、野球に不可分な諸要因として取り上げなおしてみることにある。投手がテンポよく三者凡退で抑えると、攻撃のリズムが生まれる。実況者、解説者も、現地観戦しているファンも、そう述べたり感じたりしている。しかし、それはいったい何なのか。何がそう感じさせているのか。「よくわからないけどたしかにあると思えるような何か」は、野球の構成要素なのか、それとも単なる思い込みなのか。無論、この問いに容易に答えを出すことは困難であろう。それでも、テーマは無限にある。なぜなら、野球は毎日何かを生み出しているからだ。

 野球は、実に様々な出来事によって構成される。一球投げるごとに、つねに戦況は変化し、ヒット、四球、ホームラン、エラー、FC、死球、乱闘、退場(!)、リクエスト、サヨナラという「出来事」がつねに起こっている。そのすべてにドラマがあるのだ。しかし、その筋書きは最後に浮かび上がってくるに過ぎない。野球の面白さは、「偶然性と運命」が入り組んでいることにある、そう思われるのだ。偶然と運命は、一見すると対立項に思われる。偶然は筋書きがないことであり、運命は筋書きがあることを意味すると思われるからだ。しかし、偶然を思考し得ないとき、そもそも人はある出来事を「運命だ」と考えることができるだろうか。逆も然りである。運命を引き受ける人にしか、偶然の出来事は訪れないのではないだろうか。このように考えれば、偶然と運命は、互いに排斥する関係で捉えるべきではないのかもしれない。野球とはまさに、偶然に支配されたスポーツであり、しかしそこに運命的な要素が読み取られることで、ファンは熱狂し、応援するのだろう。(すべてが偶然だというのなら、勝った負けたで一喜一憂することがなぜあろうか!)

 ということで、自己紹介はこのくらいにして、次回はこの「偶然性と運命」をテーマに、私の野球観の根底にあるものを語っていこうと思います。それは、野球という”生”の形式をめぐる、合理性に傾倒する時代に反した考察となるでしょう。最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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