自分しか知らない親の顔
「兄ちゃん、パパが死んじゃった」
突然来たショートメールにはそう書いてあった。
自分が2歳の時に両親は別れた。
元々自分が生まれる前から問題のあった家系だ、なるべくしてなった結果だろう。
自分たち三兄妹は世間としては珍しく父方に引き取られた。親権は母にあるらしいがその辺は正直今もよくわからない。
当時は小さいけれど会社の社長をしていた父は、仕事も忙しく不器用なりとも色々してくれた(今でも育ててくれたとは言わない)
昔気質の頑固者で、きっと抱えるストレスも大きかったと思う。元々酒は好きだった父だが、日に日に量が増えて、母と別れて2年後には依存症となってしまった。
それを知った母方の祖父母は、長男である兄と女の子である妹を引き取って育てると言ったらしい。
その提案は半ば強制のようなもので、父自身も今の自分一人で子供三人は育てられないとわかってたんだろう、何故か自分だけ父の元に残ることになった。兄6歳、自分4歳、妹2歳の時だ
離れて暮らしても兄妹との交流はあった。同じ町内だったのもあるが、毎週土曜日に兄妹が父の家に泊まりにきて一緒に過ごした。自分は何をするにも父と一緒で、自分の世界の全てだった。
そんな幼少期を過ごしつつ、自分が小学校高学年になる頃には兄が祖父母の家からこちらへ住む事になった。そして同じぐらいのタイミングで父は糖尿病にかかり度々入院生活を送ることになってしまった。
でも自分は父の家から出たくなかった。何より、一人だけ離れて暮らしていたのに今更祖父母の家に行くという選択肢は有り得なかった。
結局、児童相談所には表向き兄妹みんな祖父母の家で暮らしている事にして、時折父の友人が様子を見に来てくれる事になった。
10歳と12歳の奇妙な二人暮らしがスタートした。
家事全般は自分が出来るようになっていたので全く大変ではなかった。でも、小さな自転車を押して出掛ける買い物だけが大変で、スーパーで子連れの家族を見かけるたびに心の奥が締め付けられたように苦しくなった。
入院は3ヶ月スパンで、退院して3ヶ月生活をしてまた3ヶ月入院というのを5年ほど繰り返していた。
一年のうち半分は家にいなかったけど、兄と妹の誕生日はタイミングよく退院していて一緒にケーキを食べていた。自分の誕生日はいつも入院していたけれど、父の苦労を肌で感じていたから文句は言わなかった、言えなかった。
「本当にお酒を辞めないと死にますよ」そう主治医に言われていたのも知っていた。入院中は勿論一切飲まなかったが、退院してくると浴びるように飲んでいた。それでも泥酔した時は口癖のように「○○(妹)が高校出るまでは俺が面倒見るんだ」と、きっと自分に言い聞かせてたんだと思う。
最近よく耳にする、ヤングケアラーというやつだと思う。幻覚と幻聴に伴う暴力的な行動に、時には矛先を向けられたりしながら、それでも逃げはしなかった。自分には父親しかいないから。
兄が高校に上がる頃には貯蓄も底を尽きかけ、兄は就職の選択肢を取るしかなかった。自分も卒業後には働くつもりで高校を選んだ。
就職する兄と約束したことがある、それは自分が地元に残って父の面倒を見ることだ。自分がやるしかなかった、押し付けられたわけじゃない、自分が父に何かをしてあげられるならそれしかなかったと思う。
そうして兄は遠く離れた県へと、その2年後に自分は隣町への就職を決めた。就職で一人暮らしをする事になり、妹に父と一緒に住むことをお願いした。渋々了承してくれたけれど、本当は断りたかったはずだ。
最初に就職した会社は光を通さないほどのブラック企業だった。労働時間、給与、何を取っても漆黒としか言えない勤務形態で、結果一年半で辞めてしまった。
その時に、実家に戻って初めて父の前で泣いた。逃げてしまった自分を恥じて泣いた。頑張れなかったのが悔しくて泣いた。あなたの息子なのに何も結果を残さなかったと泣いた。その日、10年ぶりぐらいに父の料理を食べた。家事全般を自分がやるようになってから、ずっと食べてない大好きな肉じゃがだった。
1ヶ月ぐらい滞在したけれど、父は家事をやれとは言わなかった。嘘のように優しかった。
そして、知り合いの現場関係の人に一緒の職場で働かないか、と声をかけられて実家を出る事にした。「たまには帰って来いよ」それが最後に見た父の笑顔だった。
元から体を動かすのが好きだったのもあって、仕事にはすぐに慣れた。短期出張が多く、月曜から土曜で終わらせて日曜に休み、次の週にはまた違う現場に入るような日程だった。
2014年7月2日、その日は山の中で電波の届かない場所で働いていた。作業が終わり宿に戻る最中、ショートメールが届いた。妹からだ。
朝に送信されたものらしかったけれど、自分は冗談だと思い「タチの悪い冗談やめろって」なんて返信をした。2週間前に父と電話で話したばかりで、その時は「時間あったら地元のお祭りに顔出して行けよ」と言われたぐらいだ。
悪ふざけも大概にしろと、妹に電話を掛けると泣いていた。自分は現実を受け入れられなくて、自分の立場では絶対に言ってはいけない言葉を言ってしまった。
「何でお前が家にいたのに見てなかった」
ごめんなさい、と謝られてから気が付いた。その役目を負ったのは自分だったと。一瞬でもそれを忘れてしまった自分が許せなかった。
その後に自分が取った行動も最悪だった。自分の行動を責めるのに必死になってこんなんじゃ誰にも顔を合わせられないと、葬儀等を全て親戚や兄妹に任せて、自分が実家に顔を出したのは全て終わってから、父が死んでから4日後の7月6日の事だった。
今年で8年が経つ。人は必ず死ぬのは理解しているけれど、今も悔い続けている。
自分の発言に責任を持たなかった事にだ。親戚にも自分が面倒を見ると話していて、結局は取った行動がこれだ。
この先何があっても自分自身を許すことはない。罪に問われた方が楽なのに、誰からも責められない。
自分の料理の作り方を全て教えてくれた父。夜中に起きてしまった自分と一緒に屋台のラーメンを啜った父。雨の日は学校からタクシーを使って帰って来ていいと言ってくれた父。入院中も毎朝公衆電話から「おはよう」とモーニングコールしてくれた父。なぜか「パパ」って呼ばなきゃブチ切れる父。杖を使わなきゃ歩けないほどに弱っていて、肩を貸そうとしても絶対に断った父。階段を辛そうに登るから、背負おうとしても断り自らの足で歩いた父。
きっと世間から見たらうちの親父はクズだ、身内から見てもクズだ。そして残念な事に息子である自分もクズだ。
でも凄いやつなんだ、俺のパパは世界に一人しかいない本当に凄い人間なんだ
でも悲しい事に、彼の息子である俺は、彼の評価を下げるような人生を過ごしている。
この口からどれだけ語ろうが説得力がないけれど、こんな俺にも偉大なるクソッタレなパパが居たんだ。
何年かかるかわからないけれど、少しは誇れるような存在になりたいと思う。