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『演/縁/焉』-Cinderella / TOMOO-

Cinderella / TOMOO
作詞:TOMOO
作曲:TOMOO

 TOMOOさん楽曲の歌詞解釈・第3弾。と言ってもシリーズ化を企図しているわけではないですが。
 この記事の最後に第1弾と第2弾のリンクを貼っておきますので、これを読んでもまだ暇だという方はそちらも見ていただけると、私が喜ぶこと請け合い。

 さて、今回は「Cinderella」。
 MV、スタジオライブ動画、サブスクなどのリンクを以下に貼っておきます。


 本当に、ただひたすらに名曲。凄い。1月30日に行われたTWO MOONツアーファイナルでの演奏も圧巻でした...。
 当初はそのライブに行く前にこれを書き上げようと思っていたのですが、どうしてもしっくり来る解釈ができず、間に合いませんでした。もう7月下旬ですので「間に合いませんでした」どころの話ではないのですが。
 結局、書きたいと思っていた内容を十分に適切に書けた気はしませんが、提示したかったテーマのようなものは一応盛り込めたので、乱文のまま公開することをお許しください。

 という言い訳です。

※「 」は歌詞の引用記号、〈 〉は歌詞から読み取ったキーワード的なフレーズの強調記号、とご理解ください。また、歌詞の主人公のことをここでは〈私〉と表記します。



1.1A(「シンデレラじゃない」〜「駅まで下ってく」)

 〈私〉は「シンデレラ」ではない。だから、「君」と再び会うための手がかりとなる「ガラスの靴」を落としていくことはできない。
 「シンデレラ」は物語の主人公の象徴。「ガラスの靴」はその後の劇的な展開を引き起こし、主人公の人生を変えるトリガー。今までずっと浸っていた日常、〈馴染みのある世界〉から、ついさっきまで目の前にあった〈新しい世界〉へ入るためのもの。
 〈私〉は物語の主人公ではないから、そういう人生が変わるような劇的な展開を願ったり雰囲気に酔いしれて運命に身を任せたりすることはできない。そう自分に言い聞かせる。今の自分から変わりたい気持ちはあるけれど、変わることで幸せになれるなんて信じてはいけない、と。
 「でも」シンデレラのように、日付が変わる頃に家に向かって駆けている。ドラマチックな展開を予感させる状況の、まさにその只中にある。


 ここが「でも」で接続されているのは、自分が物語の主人公ではないことを自分でも理解しているけれど、〈もしかしたらそうかもしれない!もしもそうだったら!〉という期待(あるいは願い)を捨て切れていないことの表れだろうか。

 イントロ〜1A前半で鳴っているピアノの印象的な低音フレーズ(ラ♭ーシ♭ド♭ドード♭ーラー)も、上昇後にゆっくり下降する音形になっていて、〈新しい世界〉へ足早に近づこうとしたが徐々に後ずさりした様子、しかもそれが繰り返されることで、何度かそうやって逡巡した様子が描かれているように感じる。
 逆に1A後半のピアノはラ♭ーソ♭ーファーミーと坂を下りていくのみ。


2.1B(「終電なんて」〜「揺らいでなかった」)

 「終電」は、自宅すなわち日常、〈馴染みのある世界〉へ帰ること、そのための最後の手段。しかし本心では、日常へ帰りたいなんて思っていない。
 「運命線」はいわずもがな手相のひとつだけれど、ここではどちらかというと「運命」の「線」という意味の部分に重点があるように感じられる。「運命」、巡り合わせ、自分にはコントロールできないような物事の運び。これは、ある種の物語性を含むものと解釈できる。というのも、物語も、完結した後の視点(はたまた作者の視点)から見れば、既にストーリーは決まっていて、物語内の人物はそれに逆らうことはできない、という点で「運命」に類する。あるいは、「これは運命だ」と感じたとき、多くの人は自分が物語の主人公になったかのような感覚になるはず(たぶん)。
この「運命」という物語が終わる(=物語だという錯覚から覚める)前に、最後に「君」と「キス」がしたかった。そうすれば、もしかしたらこの物語は終わらなかったかもしれない。そういう心情だと思う。この「キス」はそのままの意味にも読めるが、既に「君」のいる〈新しい世界〉に〈私〉も入っていくことを指しているとも読めると思う。これは、この歌詞全体を恋愛ソングとして読むか、あるいは恋愛の描写を通してより普遍的な出来事が表現されたものとして読むかによるだろう(この記事は一応後者のつもり)。

 「道玄坂」は渋谷にある坂の名前および地名。坂の右側にはライブハウス、クラブ、風俗店、ラブホテルなどが多くある。猥雑さ・自由さ・新鮮さ・本能・虚飾などの象徴。整序されていて、収まりが良く、いつもと同じものである〈日常〉の、対極にある区域。
 坂の下には渋谷駅。日常まであと二歩ほど。このまま日常へ帰るのだから、そこまでは振り返ってはいけないと、理性がこだまする。

 君はもう既に〈新しい世界〉にいる。〈私〉はどうしても二の足を踏んでしまい、日常へと引き返してしまった。「君」のもとから去っていく〈私〉を、「君」は揺らがずに静かに受け入れる。日常への回帰(理性)と新しい世界への名残惜しさ(衝動)との間で揺れ動く〈私〉との対比。
 「君」が本当に揺らいでいなかったのかは分からない。でも少なくとも〈私〉にはそう見えていて、それが〈私〉の切なさをさらに増幅させる。


3.2A(「シンデレラじゃない」〜「ひやしてく」)

 〈私〉が「シンデレラ」じゃないのなら、「君」も「王子」じゃない。王子なら何がなんでも〈私〉を引き留めようとするはずだけれど、「君」はそうしなかった。
 つまり、ふたりとも物語の登場人物ではなかった。だから、ふたりに劇的なことなんて起こらない。仕方のないことだろう。またそう言い聞かせる。

 電車に乗り、じきに「最寄り駅」に着く。終電の時間を過ぎて、いつ来るかも分からない「タクシー」を待って人々が「列」をなしている。
 この「タクシーの列」は、「君」が追いかけてくることをどこかで期待し続けたままここまで来てしまった〈私〉の写し鏡。その列は、降り始めて久しい「霧雨」で冷やされている。
 日常まであと一歩のところまで戻ってきた〈私〉は、「タクシーの列」に自分を重ね合わせ、自分の気持ちも同じように冷めていくのを感じている。

 あるいは、こうも言えるだろうか。
 タクシーと乗客とは、あくまでも〈契約〉という〈虚構〉を前提にして成り立つ関係。
 ここまで何度か指摘した〈物語〉も一種の〈虚構〉であるが、その内部においては、登場人物の全員がお互いの(そして自分の)実在を疑っていない。
 そうすると、〈タクシーと乗客〉という虚構の関係を疑わずに待つ「タクシーの列」の方が、終わりつつある「君」と〈私〉の関係よりも、幾分か物語的なんじゃないか。そういう半ば皮肉(あるいは自虐)じみた目線。
 「霧雨」は、ほとんど日常に近づいて落ち着きを取り戻しかけている〈私〉の気持ちを象徴している。そんな「霧雨」である〈私〉が、「タクシーの列」という物語を、冷やかにまなざす。


4.2B(「玄関先に」〜「二人はいない」)

 とうとう玄関先に着く。日常への回帰。
 そこでついに、「君」と〈私〉の関係は終演を迎え、本当に物語性を喪失する(〈物語〉ではなかったことが再確認される)。〈私〉は、「君」との関係性の上で成り立っていた〈私〉という仮面を脱ぐ。
 物語の終わりを告げるのはエンディングテーマ。それは、たったいま物語性を喪失したことへの嗚咽。電気をつける間もなく込み上げる。
 2C以降の部分(あるいは「あの夏の」以降の部分)がこの嗚咽の中身に相当するだろうか。


 「桃源郷はなくても笑えてた喜劇」というフレーズは、理解するのが非常に難しいと感じたが、最終的にはストレートな意味に理解している。やや脱線気味になるが、少し詳しめに書くと以下の通り。
 まず、桃源郷の由来である『桃花源記』のあらすじはこう(たぶん)。

 この村が「桃源郷」であり、いわゆるユートピアと似たようなものとされるが、目的をもって探すと辿り着けないという点で、ユートピア思想とは異なる(らしい)。
 しかし、この話、普通にそのままで喜劇ではないか?桃源郷がない(見つからない)からこそ、探そうとしても見つからない人々の様が滑稽に思えるのではないか?そうすると、桃源郷はなくても笑えてた、というより、桃源郷がないからこそ笑えてた、という方がしっくりくる。
 これはおそらく、物語の観客の視点から見ているからそう思えるのだと思う。むしろ登場人物の視点、物語内的な視点からは、桃源郷が見つからない場合、普通は笑えないはずだ。
 だからこそ、登場人物の視点からは「桃源郷はなくても笑えてた」という表現になる。いや、登場人物が登場人物でありながら、(おそらくは無意識に)観客的なメタ視点に転位するからこそ、「桃源郷はなくても笑えてた」という表現が可能となる。つまり、桃源郷が見つけられない様子を純粋に第三者的に見て笑うのではなく、探している当事者自身が自分に滑稽さを感じて笑ってしまう
 繰り返すが、目的地に辿り着こうとしても辿り着けない場合、普通なら笑ってなんかいられない。しかし、ここでは笑っていられた。それはふたりで一緒にいるからだろう。一人でいると、もともと設定されている目的(「桃源郷」に辿り着くこと)のみに意が注がれてしまうが、ふたりで共にいることでお互いの行動に見ることができる。ふたりは互いに、徒労に終わる行為に勤しむ相手の様子に、自分の姿も透かし見る。そのために自分達の様子が滑稽に思える。
 この〈笑い〉は、何らかの目的を追求しようとする姿勢のままでは起こり得ない。すなわち、桃源郷に辿り着くことを目的として行動していたはずだが、いつの間にか、ふたりでいること自体を楽しむ姿勢への転換が生じている。
 それは、〈大人の生き方〉というよりも〈子どもの生き方〉と言うべきもの。大人になった者にとっては、どこかリアリティを欠く、理想、夢物語のような生き方。これも一種の虚構。

 物語の中の登場人物のように、共に過ごす生の只中で幸せを享受するふたり、自分たちの関係の確かさを疑わなかったふたり。そんなふたりはもういない。


5.2C(「baby くだらない」〜「似合ってるよ」)

 プライドやルールを気にする自分が邪魔をして、結局〈私〉は変わることができなかった。
 プライドは、自分自身の価値観へのこだわり。ルールは、常識や世間体、すなわち既存の社会的な価値観。
 本当はそれを壊したい。壊してほしい。しかし、いつまでたってもそれを壊すことができず、変われない。
 「君」は、そんな〈私〉の弱さまでも受け入れて、もう既に〈私〉の日常の彼岸で生きている。変わってしまった「君」の価値観、「新しいコート」。

 「許してさ」という歌詞は、上述のように、「君」が〈私〉を許した、という意味にも読めるが、そんな自分の価値観へのこだわりを大切にすることを選んだ〈私〉自身を受け入れてあげて、という〈私〉から〈私〉への呼びかけとも読めるだろうか。


6.2D(「見たかったのは1つだけ」〜「ダイヤ」)

 変わること、あるいは〈私〉と違う世界、を選んだ「君」。
 そうやって自他の間に線を引くということを、人は意識的に又は無意識にやってしまう。そうすることはとても簡単で、生きていく上でいろいろと都合がいい。そうやって〈私〉という役割の中におさまろうとする。虚構によって自分を守ろうとする。
 そうではなくて、そういう分節を取り払って、「君」自身がどうしても大切にしたいと思っている、誰にも譲れない・砕かれないもの、そういうものを素直に見つめたかった。


 2Cで出てきた「新しいコート」は、「君」の新しい価値観を指す。おそらくturn one's coat(立場・主義を変える)などの表現に由来するものと思われる。しかし、ここでは、物体としての「コート」のイメージ(着脱可能で、1番外側・表層に着るものであること)と「ダイヤ」が対比され、一見すると価値観(コート)が変わったように見えても、その内側で大切にされている「君」の本質(ダイヤ)、いわば価値観による線引き以前の生身の「君」、に対して〈私〉の目が向けられていることが分かる。


7.3C〜3D(「baby くだらない」〜「ダイヤ」)

 「君」との間にあるように見える「境界線」。その引き方自体が既存の価値観の反映。その「境界線」は、本当にあるかどうかも分からない、その引き方が正解かも分からないもの。虚構。
 本当は、移り変わりのはっきりしない「季節」みたいに、グラデーションのように、連続的な世界があるだけかもしれない。
 変われない〈私〉はまだここにいるけれど、「君」はその「季節」のグラデーションさえも、もうとっくに「飛び越えて」しまっている。灰被り姫ですらない〈私〉と「鮮やか」な「君」との対比。

 「君」の心の中の、本当に大切にしているもの。それが何なのかは分からないけれど、きっとそういうものがあるからこそ、「君」は「生まれ変わる」という選択をすることができたのかもしれない。
 生まれ変わらないことを選んだ〈私〉にも、そんな風に本当に大切にしているものは、あるんだろうか。



 解釈を考えていたら不思議と「en」という読みのいくつかの言葉がキーワードになったので、タイトルもそこから取りました。
 「これも『TWO  MOON』(円)による縁か...」などとくだらないことを考えましたが、書き終えて改めて歌詞を読むと、坂、運命線、終電、タクシーの列、境界線など、「線」(sen)も、(一部はやや否定的な方向のものではありますが)重要なモチーフだったのかなと。
 〈私〉は一周回って結局〈日常〉に戻っていく。点で見れば同じところにいるかもしれないけれど、線上で感じた様々なことが〈私〉の中に隠れている。
 読めば読むほど味わい深い、素敵な歌詞だなぁ。

それでは。

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