見出し画像

『再/細/賽』-リピート / Aooo-

リピート / Aooo
作詞:すりぃ
作曲:すりぃ

 石野理子さん(ex.アイドルネッサンス、赤い公園)が参加された新バンドということでずっと気になっていた。ライブ情報は追えていなかったけど、スタジオライブ公開の通知が来た後すぐに視聴して「想像を遥かに超えた凄いバンドが出てきたな」と興奮した覚えがある。

(#2以降も期待していいのかな...)

 そこから5ヶ月の時を経てアルバムリリース。予約したCDはフラゲ日に届いたけど、その日は仕事で諸々があって帰宅したのは23時前。1時間だけのフラゲ。寝る準備万端にしてから開封し、歌詞カードを手に取る。この手触りはやっぱり良い。ジャケットもかっこいい。歌詞カードを手に取って読むという行為が昔から好きで、先行配信曲の歌詞もあえて調べずにいた。ワクワクも一入。いざ再生。

 40分にも満たないアルバムだけど満足感が半端じゃない。聞き終わった瞬間に「うおー!!ギター弾きたい!!!」と思った。夜中なので控えた。「初期衝動」そのものというよりもそこへの「回帰」のような作品。寝る準備万端にしていたけど興奮冷めやらずしばらく眠れなかった。
 サブスクで先行配信のなかった曲も含め、全曲本当に良かった。でもやっぱり「リピート」が好きで何度も聴いてしまう。石野さんの歌声は言葉が聞き取りやすいから歌詞はだいたいわかっていたけど、歌詞カードを読んで改めて良い歌だなと思った。

 ということで前置きが長くなりましたが、タイトルの通りこの記事は「リピート」の歌詞についてです。ちょっとした解釈的なものと「この表現のここがすごいと思った」ということを断片的に。
 繰り返すことと繰り返せなさとの間の艱苦。


0A(「なんでもない〜戻れたらと歌う」)

 とてもシンプルな歌詞。「あの日々に戻れたら」という感情は、生きている中でおそらく誰もが一度は抱くであろうもの。

 ただの栞でも意味は通りそうだけど「お気に入りの栞」なのがいい。「栞」自体が「お気に入り」のものなのか、それとも「あの夜」や「あの日々」が自分にとって「お気に入り」なのか。どちらにしたって特別であることには変わりはないけど、おそらくは後者。
 一般的な栞の使い方は、読みかけの本を閉じるときに、今まさにちょうど読んでいるところに挟むというものだと思うけど、この場合の「栞」は、好きなページに挟んで読み返せるようにする、という用途が前景化しているように思う。付箋とか、本のページの端を折り込むのとかに近い。インターネット用語でいうところの「ブックマーク」のような。「栞」自体が「お気に入り」だと必ずしもこういう意味にならないからやっぱり「あの夜」や「あの日々」が「お気に入り」ってことだと思う(もちろん、なおかつ「栞」がお気に入りのものであってもいい)。

 しかしそれだけだと「栞」(と本)をモチーフにする必要はない。例えば、日記をつける、写真を撮る、そしてそれらを見返す、みたいなことでもいいはず。歌詞としては三流かもしれないけど。
 単に〈「あの夜」や「あの日々」が「お気に入り」だから読み返したい〉という想いだけではなくて、〈「あの夜」や「あの日々」に戻ってその続きからやり直したい〉という想いもあるからこそ、「栞」というモチーフなのだと思う。「栞」はそういうセーブポイント的な機能。保存し、再びそこから現在を始めるためのもの。


1A(「階段を〜サヨナラしたっけ?」)

 上へ登ること・前へ進むことが自然なことだと思い、あるいはその方向こそが上や前だと思い、特に疑うことすらない。思考の起こりよりも一歩手前で、知らない間にそういう風に馴致されている。
 それが転倒する瞬間が不意に訪れる。登り切った後のそこが「振り出し」であるかのように、階下の方へと視線が差し向けられる。ただ前に歩いていただけのつもりでいつの間にか置いていってしまった日々に、名残り惜しさを感じる。あるともないとも意識してなかったものの不在に対して、急に〈意味〉が生まれる。
 それが不在になっていくことに対して私はどう接していただろうか。


1B(「この歌〜また増えたんだよ」)

 「あの日々に戻れたら」と歌っていた「この歌」も、繰り返す度に〈意味〉を失っていく。「あの日々」が徐々に色褪せていく。尖って歪な形をしていたものが転がりつづけて丸くなるように。初めて接するものの異物感が手に馴染んでいくように。〈何か〉であったはずのものが、なんでもないものへと削り取られていく。
 〈意味〉を失っていくことに対して、更に〈意味〉が生まれていく。それによって、現在の〈なんでもないもの〉がかえって〈意味〉を帯びていく。「あの日々」のように、なんでもない話を何度も何度もできたらと思う。
 「また増えたんだよ」で増幅される、「あの日々」から現在までの時の経過と戻れなさが、切ない。


2A(「なんでもない〜名前はないよね」)

 「アイスクリームを頬張り」って不思議な歌詞だと思う。アイスって普通頬張るものじゃない。すぐ溶けるし。いや、溶ける前に食べちゃおうってことで頬張ったのか。
 ちょっとした仕草の〈なんでもなさ〉とそれに付与された〈意味〉の両方を含意する表現として「アイスクリームは頬張り」は絶妙だと思う。凄い。

 「なんでもないこの日々に名前はないよね」っていう歌詞も好き。名前を付けるっていう行為は、その対象に対する意味の付与だと思っていたけど、むしろ〈名付けたい〉〈名付けよう〉っていう気持ちの時点で、その対象には既に意味が付与されている。というより、きっとその気持ちこそが〈意味〉なのか。


2C(「花が咲いて〜気付けないよ ああ」)

 いつだって〈不在〉の中に記される〈在ったことの痕跡〉を通してしか、その〈意味〉には触れることができない。しかし触れようとした時には、常にすでに〈不在〉しか残っていない。
 これはたぶん古今東西で語り尽くされたテーマだと思う。でも「二人去って愛を知る」と、この語数でそれをシュッと表現できるところが凄い。「君がいなくなって」とかじゃなくて「二人去って」なところも凄い。自分の同一性・連続性さえも前提しないというか。無前提に自分だけ被害者面したりしない。俯瞰している分、如何ともし難い感じが際立つ。


3B(「繰り返す度に〜また増えたんだよ」)

 「抗うこの街の中で」は、一見「変わらないこの街の中で」と反対のことを言っているように見えるけど、おそらく同じことを言っている。変わらないようにすること、現在をその都度保持し続けることで、〈意味〉の喪失に抗おうとしてるんじゃないかと思う。

3C(「花が咲いて〜気付けないよ ああ」)

 2Cでは触れなかったけど、「戻りたくて賽をふる」っていうフレーズが、歌詞カードを読んでいて一番震えたところ。
 すごろくなどのイメージを借用して、〈振り出しに戻る〉に止まれないかなという願いを込めて賽をふる、という行為を描く。しかし、その裏では〈賽は投げられた〉にかけて、もう賽を振り出してしまった以上、やっぱり〈振り出し〉には戻れない、ということを暗示する。未来の中に過去への回帰の望みをかける行為。その中には原始的に実現不能性が内包されているというしんどさ。
 そうやって、戻ろうとする行為を「繰り返す度に」、戻ろうとした「あの日々」からはどんどん「離れ」ていく。そこまで全部わかっていても、やっぱり繰り返さずにはいられないのかも。


 意味がわからなかったらすみません。
 新宿のフリーライブに行けなかったので私の初Aoooは12/29の代官山UNITです。楽しみ。

 それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?