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大條宗頼(大條家第九世)【中】
前編はこちらをご覧ください。
分家の末息子から急転直下で本家を継いだのにも関わらず、父親譲りの優秀さで本家の石高を一気に倍増させた遅咲きの名君 大條宗頼について記載いたします。(中編)
正保元年(1644年)御国番頭となり、ここから仙台藩の行政に深く携わっていきます。この時大條宗頼は44歳でした。
正保二年(1645年)十月、松田善右衛門から鷹の羽根を献上されたことへの御礼使者、そして正保四年(1647年)八月は徳川亀松(徳川家光の次男)が夭逝したことを受けての使者として、それぞれ江戸に上っております。
正保四年は八月八日に出発し、二十一日に帰着するというスケジュールでした。
精力的な活動が徐々に見えてきましたね。
しかし、正保四年(1647年)十月、大條宗頼はわりと大きな失態を犯してしまいます・・。
水戸藩領の田谷村に住む弥左衛門という百姓が人を誘拐し、大條宗頼の領地である坂元村に潜伏していました。水戸藩はこれを見逃さず、大條宗頼に身柄の確保と引き渡しを求めます。大條宗頼はすぐに弥左衛門を捕らえ、近隣の真庭村の百姓3人を牢番に任命して身柄を勾留してました。
ここまでは見事は対応なのですが、
なんと牢番の隙をついて弥左衛門が脱獄してしまったのです…
仙台藩は急ぎ、
・弥左衛門の妻子3人
・弥左衛門の従者2人
・弥左衛門が誘拐してきた者1人
この6名を水戸藩に引き渡したのですが、弥左衛門を逃亡させてしまった責任を鑑み、なんと牢番3人の首も添えたようです・・
江戸時代の幕藩体制では、百姓は各藩の税収や労働力の基盤であり、百姓が他藩へ逃げ込むことは藩の経済基盤を直接揺るがす問題とみなされ、他藩の逃亡者を速やかに返還することは、各藩に課された非常に重要な義務だったのです。
幸いにも仙台藩と水戸藩の間は親しい関係であった為に大事には至りませんでしたが、一歩間違えれば両藩の関係に深刻な亀裂を生みかねない出来事でもありました・・
なんとか危機を免れた大條宗頼は、その後も御国番頭を務め、
慶安二年(1649年)までトータル六年間にわたってその職務を果たしました。
そして同年、江戸留守居役になり一年間江戸に滞在しております。
慶安三年(1650年)、従来から諏訪山の山頂に祀られていた「諏訪大権現普賢尊」に加え、「建御名方之神」を分霊し、諏訪山に新たな守護の場を創設しました。建御名方之神は武勇の神としても名高く、居城 蓑首城の鬼門守護を担うと同時に、領地全体の繁栄と平穏を願った宗頼の深い思慮がうかがえます。
その後、承応二年(1653年)、大條宗頼は江戸留守居役を再任され、さらに六年間江戸での生活を送ります。
この間の明暦二年(1656年)に坂元の上平に足軽屋敷二十七軒と検断屋敷を設けて相馬との境を固めるなど、江戸にいながらも精力的に町作りを進めていたことが伺えます。
万治元年(1658年)四月、大條宗頼が仙台藩江戸屋敷の替地に関する重要な交渉に携わった記録が残っています。この年の四月三日、松平信綱(老中)から伝えられた内意により、現行の麻布屋敷の代替地を早急に太田備中守まで提出するよう命じる書状が届きました。候補地としては品川と渋谷がありましたが、渋谷は「道が悪く、荷車も薪の調達も不便」だったため、大條宗頼は「品川の屋敷が最も適当である」と上申しました。
その後の四月十三日、大條宗頼と伊達兵部、奥山大学らが太田備中守宅に参上し、代替地の絵図を持参しながら具体的に品川新屋敷の拝領を願い出ています。この交渉では「可能な限り広い屋敷場を頂きたい」と熱心に陳情した様子が記録されています。その甲斐があり太田備中守は直接久世大和守(老中)への働きかけを行い、結果的に品川の地が代替地として確保されることとなりました。
このエピソードからは、藩内外の調整や代替屋敷の交渉において、大條宗頼が大きな役割を果たしていたのかが伺えます。
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(万治元年に拝領と書いてありますね)
その直後の万治元年(1658年)四月二十八日、藩主伊達忠宗から800石もの加増があり、石高は遂に3,000石となりました。
そうなんです!
1,500石で家督を継いだのは前半で記載した通りですが、ここで遂に石高が倍増となりました。
そんな矢先、同年の七月十ニ日に藩主 伊達忠宗が亡くなってしまうのですが、「伊達治家記録」等にはその時期の大條宗頼の慌ただしい様子が記されています。
万治元年(1658年)七月十三日
忠宗公ご逝去という知らせを受け、飛脚が江戸に到着。
すぐに、大條兵庫が仙台への使者として命じられ出発。
七月十七日
茂庭周防、原田甲斐、富塚内蔵、古内肥後より、
大條兵庫と奥山大学に対して葬儀に関する書状が届く。
七月二十日
茂庭周防、原田甲斐、富塚内蔵、古内肥後から、
義山公(伊達忠宗)の御廟のことや役人たちの御用に関する内容について、大條兵庫と奥山大学に対し書状が届けられる。
七月二十二日
江戸藩邸において、忍待忠秋が上使となり香奠が賜わる。
その事を大條兵庫、片倉小十郎、奥山大学が御家老中に奉書を用いて報告。
八月六日
御葬礼が執り行われる。茂庭周防、原田甲斐、富塚内蔵、古内肥後より、葬礼が滞りなく済んだ旨が、
江戸にいる大條兵庫、奥山大学へ書状で報告される。
九月五日
時松巌山 東園寺の雲居禅師から追善供養が首尾よく厳修した旨などの報告を受けた書状が残されてます。(外部リンク)
※こちらは「伊達治家記録」には未記載
九月八日
伊達綱宗が家督相続の御礼のために登城し公家に拝謁。
また、家臣の石川大和、伊達土佐、伊達和泉、伊達安芸、柴田内蔵、
大條兵庫、片倉小十郎、奥山大学の8名も同席
十月十六日
大條宗頼が奉行(家老)職を命じられる
藩主伊達綱宗の初政のタイミングで、遂に奉行(家老)職を命じられました!
分家の末息子として生まれながら、急転直下で本家の家督を17歳で継ぎ、最上家の改易に伴う城の受け渡し任務を遂行したり、慌てて菱喰(ひしくい)を捕らえ献上したり、凶悪犯を逃してしまったり、そして数多く江戸へ赴いて苦労と努力を重ねてきた大條宗頼。齢58歳にしてやっと報われました。藩主伊達綱宗はこれまでの大條宗頼の頑張りをしっかりと見ていてくれたんですね。
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これで、大條家からの奉行(家老)就任は3代連続です。
父の大條実頼は誰もがリスペクトする「KING of 奉行(家老)」として生涯を終え、先代の大條宗綱はわずか32歳であっさり奉行職に就任。
一方、大條宗頼は苦節41年、58歳にしてようやくその座を射止めたのです。
万治二年(1659年)二月、伊達忠宗の妻である振姫(孝勝院)が亡くなり、
その棺と共に大條宗頼は仙台に向かったことが記録に残っております。
その後、万治二年(1659年)三月、藩主伊達綱宗に嫡子(後の伊達綱村)が誕生したのですが、なんと藩主綱宗から「大條宗頼は男子が多いから、幼名を考えてよ」と命じられ、「松千代」と命名しました。
結局「松千代」から「亀千代」と一部変更させられたようですが、後に勃発する『伊達騒動』によって後世に名を馳せることとなったその名前は大條宗頼が命名したというのは、非常に興味深いですね。
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※幼名亀千代
伊達綱宗はお宮参りの帰り道に大條宗頼邸に寄り、謝辞を示されたようです。その際、大條宗頼は小太刀を献上してお祝いをしました。
恐らくこの時、大條宗頼は亀千代の初着(うぶぎ)を贈られており、大條家ではその初着を代々大切に保管してきました。そして、大條家第十九世の伊達宗雄氏によって瑞鳳殿に寄贈されたとのことです。
ここで余談ですが、「大條宗頼は男子が多い」という点について述べたいと思います。系図を確認すると、大條宗頼には三人の男子しか記録に残っていません。このことから、「男子が多い」という表現には少々疑問を抱きます。
ここで大條宗頼の妻子について整理してみます。
大條宗頼の夫人は奥山兼清の娘で、宗頼が39歳の時に亡くなったとされています。39歳という年齢は、伊達忠宗から加増されて1,657石になり、御国番頭になる時期のちょうど間あたりです。
大條宗頼には七人の子が記録に残っておりますが、どうやら第五子までは正室の奥山兼清の娘との子であり、第六子と第七子は側室との子のようです。側室は藩主伊達忠宗の夫人である振姫(孝勝院)の女中で、系図には青湯院秀という名前が残されています。
第一子:女子(葛西藤左衛門夫人)
第ニ子:男子(大條家第十世 大條宗快)
第三子:女子(寿心局 / 大内備前離別)
第四子:男子(笹町家へ養子)
第五子:女子(成田助之允夫人)
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第六子:男子(早世)
第七子:女子(葛西壱岐夫人)
※私がまとめたこちらの系図は第一子、第三子の記載が漏れております。
もしかしたら、他に側室が多くいて、その側室たちから男子がたくさん誕生したのかもしれませんね。さらに興味深い点がもう一つあります。それは「葛西家」との縁についてです。大條宗頼の四人の女子のうち、半分の二人が葛西家へ嫁いでおり、第四子が養子に入った笹町家は、元は葛西家家臣の家柄です(その後伊達家へ仕える)
父である大條実頼の時代から何かと葛西家との関係が深いとこちらで記載していますが、やはり大條宗頼も葛西家との結びつきが強いようです。
大條家当主そして仙台藩の重鎮として充実した日々を送っている大條宗頼ですが、遂にここから伊達家最大の危機である伊達騒動の序章が始まります。果たして大條宗頼はこの困難にどのように立ち向かい、大條家や仙台藩を守っていったのかについては次回に記載いたします。
◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
本田勇 氏「仙台伊達氏家臣団事典」2003年
野本禎司 氏 「仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-」2022年
仙台市史編さん委員会「仙台市史 資料編 13」2005年
平重道 「伊達治家記録」1973年