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大條宗景~大條宗助(大條家第二世~五世)

大條家第二世 大條宗景

通称:内記
治家:二十六年
生誕:不明
死没:応仁元年(1467年)三月二日
諡名:雲祥院殿雄峰賢英居士
父母: 大條宗行 (大條家第一世)
兄弟: 不明
妻:不明
子供:大條宗元(大條家第三世)

大條家第三世 大條宗元

通称:掃部
治家:三十三年
生誕:不明
死没:明応九年(1500年)九月二十八日
諡名:千勝院殿運外良壽居士
父母: 大條宗景 (大條家第二世)
兄弟: 不明
妻:不明
子供:大條宗澄(大條家第四世)

大條家第四世 大條宗澄

通称:三郎
治家:七年
生誕:不明
死没:永正四年(1507年)六月十五日
諡名:不錯院殿直心知性居士
父母: 大條宗元 (大條家第三世)
兄弟: 不明
妻:不明
子供:大條宗助(大條家第五世)

第二世 宗景、第三世 宗元の治績は残されておりませんが、第四世 宗澄でやっと、資料上に大條(大枝)の名前が登場します。文明十五年(1483年)十月、伊達成宗の上洛に随伴して金銭・刀剣を将軍・幕閣に献上したことが資料に残されております。

「十六日民部御申之時、御ともの人数、大枝方、藤田方、
  関五郎方、彼三人は三百疋折かみ、太刀一振もたれ候、
  いつみさは(泉沢)方、牧野安房守方、
  遠藤なかと(長門)の守、中野ひたち(常陸)の介、
  春あみ(阿弥)二百疋折かみ、銀釼にてまいり候」

伊達成宗らは室町将軍 足利義尚、前将軍 足利義政、その夫人である日野富子、その他幕閣へ進物を持って参上してますが、大條宗澄は泉沢、牧野氏らより一段多い金品を献上しており、また随伴者の最初に名前が記されていることからも伊達家内での大條家の地位の高さが伺い知れます。

大條宗澄はこの上洛の24年後の1507年に亡くなります。
治家7年と若くして亡くなってしまったようですが、父である大條宗元から家督を継ぐ17年前(かなり若年と思われる)に将軍と謁見しており、
大條家期待のホープであったことでしょう。

大條家第五世 大條宗澄

通称:左馬助
治家:四十八年
生誕:不明
死没:弘治元年(1555年)十一月九日
諡名:雪嶺院殿孤山不白居士
父母: 大條宗澄 (大條家第四世)
兄弟: 不明
妻:不明
子供:なし(留守景宗二男を養子とする)

大條宗助の治績は残されおりませんが、父である宗澄(もしくは宗澄の弟という可能性も)が若くして亡くなった為に、宗助は治家48年とかなり長い期間、大條家の当主を務めました。
宗助には子がなく、天文二十二年(1553年)に養子の宗家(留守景宗二男)に家督を譲って隠居し、その二年後の弘治元年(1555年)十一月九日に亡くなりました。
これまでの大條家第一世~第五世までは父(先代当主)の死没のタイミングで代替わりしていた為、大條宗助は大條家で初めて生前に家督を譲った当主となります。

なお、伊達宗行氏著の 「翠雨山房夜話(上)」にも記されておりますが、
諡名が「雪嶺院殿孤山不白居士」と、大條家歴代当主の中で、この宗助だけ暗い雰囲気が漂っています。治家48年と長きに渡り伊達家を支え、必死に家を存続させてきたものの、不遇のまま養子の宗家に家督を譲った、そんな心境だったのかもしれません。

◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
福島県伊達郡梁川町「梁川町史」1994年

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