大條宗家(大條家第六世)
大條家第六世 大條宗家
旧名:留守宗安、大枝稙景
通称:参河、三河、左衛門
治家:二十一年
生誕:不明
死没:天正四年(1576年)十二月八日
諡名:南禅院殿一嵒道曽居士
父母: 留守景宗(留守家第十六世)、留守郡宗の娘
兄弟: 留守顕宗(留守家第十七世)、佐藤景高
妻:小梁川親宗の娘
子供:女(伊達鉄斎夫人)、大條宗直(大條家第七世)、大條実頼(着座大條家第一世)
大條宗家は大條家に初めて他家から養子に入った人物であります。
実父は留守家第十六世の留守景宗で、祖父が伊達家十三世 伊達尚宗、伯父は伊達家第十四世 伊達稙宗、従兄弟が伊達家第十五世 伊達晴宗という良血です。
大條家に養子に入る前は留守宗安という名であったようで、養子に入った当初は大枝稙景と名乗り、タイミングを見計らって大條宗家(大枝→大條姓)へと改名したと推察されます。
詳細はこちらを参照ください。
留守家出身であるからこそ、当時約150年続いていた大條家(大枝家)の慣習やしがらみに囚われず、見事に「大枝」→「大條」へのリブランディングを成功させました。
大條家歴代の正室、側室の名前が列記されるようになったのも、この大條宗家からであり、記録も含めて大條宗家以降は明らかに整備が進んでおります。
その大條宗家(稙景)は天文の乱に関する文書や書籍に名前を見ることができます。
天文の乱とは伊達家第十四世 伊達稙宗と嫡男 伊達晴宗(後の伊達家十五世)での父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱のことを指し、別名で洞の乱とも呼ばれます。
宗家(稙景)は実父の留守景宗と共に伊達晴宗側につき、晴宗の勝利に貢献しました。
また、天文十六年(1547年)八月十三日に大條宗家(大枝左衛門稙景)が伊達晴宗方の古参家臣と共に松本内記助宛に送った連署証状が残されています。(大枝稙景他五名連署証状(国見町史二巻))
そして、天文二十二年(1553年)伊達晴宗は家臣達を再び統制するために『晴宗公采地下賜録』を作り、改めて家臣に土地を与え直す手続きを行いました。
大條宗家(大枝左衛門)は新恩地と信夫庭坂の諸役直納の特権が与えられ、かつ大條家士に負担すべき棟役・段銭(地方税、固定資産税のようなもの)が免除されました。この『晴宗公采地下賜録』の記載からはこれまでの大條家の所領の全容はわかりませんが、大條宗家は梁川城にいる梁川宗清(伊達稙宗八男)の為に、米沢在小野川の在家の年貢を届けてくれるよう依頼されていることから見て、大條宗家は引き続き大枝邑に居住していることが窺い知れます。
(『晴宗公采地下賜録』の大枝左衛門宛判物に「やな川てへ御とりつき候へく候」と記載)
そしてこの天文二十二年(1553年)に大條宗家は大條家の家督を継いでおります。義理の父 大條宗助(大條家第五世)は大條家で初めて生前に家督を譲っているのですが、恐らくこの大枝の地を改めて拝領したタイミングに合わせ大條宗家(大枝稙景)が大條家の当主になり、そこから程なくして「大枝」から「大條」へ名を改めたものと思われます。
なお『晴宗公采地下賜録』は大條家にとって最初の知行拝領のエビデンスであり、その後も大條家で厳重に保管され続け、後に大條家第七世 大條宗直が伊達家第十七世 伊達政宗から気仙郡内の所領を拝領した時の黒印状と繋ぎ合わせ、木箱の中に収められ、他の史料と区別されて現代まで伝来してきたようです。この判物は大條家にとって家のアイデンティティに関わる大切なものだったことが分かります。
その後、大條宗家は天正四年(1576年)十二月八日に亡くなりました。
大條家を大胆に改革し、その後の大條家の礎を築いた名君であったと筆者は強く感じております。
◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
福島県伊達郡梁川町「梁川町史」1994年
野本禎司氏「古文書が語る東北の江戸時代」2020年
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