1987:さよならのハニー&レモン[後編]
(連作短編「茶飲みともだち #07)
秋は文化祭の季節である。
さいはての小さなまちに暮らすしがない公立高校生にとって、文化祭は人生のすべてを賭けた一大イベントだ。普段は冴えないやつが突然ステージ上で輝きはじめ、全校生徒六百人の頂点に君臨することだって、けっして夢ではないはずだった。
ほんの、数週間前までは。
「お好み焼き、どーっすかー」
教室前の廊下をうろうろしながら、ジャージに花柄エプロン姿のマサがやる気のない声で呼び込みをする。僕も同じスタイルで、通り過ぎていく他校の学生や地元の人に、「どーっすかー」と壊れたロボットみたいに繰り返し、チラシを配っていた。すると、お好み焼きチームで調理担当のリーダー、副委員長の山田が廊下に出て、「もっと気合入れて呼び込みしてよ」と文句を告げた。
「お通夜じゃないんだから、楽しそうにやってよ! 聞いてるだけでいやになってくるわ」
教室に戻る。その姿を見て、マサは言った。
「気分的には、お通夜だよな」
「まあな」
「三宅がいなくなって、女子の風当たりのきつさが増したな」
「それは前からだから、もとに戻っただけだ。思い出せ」
「そうだったな。忘れてた」
マサがため息をつく。それにつられて、僕も嘆息した。と、続々と廊下に人が出て、誰もが急ぎ足でどこかへ向かっていく。すると、同じクラスからじゃんけんをする女子の声が聞こえてきた。歓声があがり、勝った女子たちが廊下を走っていく。窓の外もやけに賑わいはじめ、人の波がいっせいに体育館へと吸い込まれていった。
ああ、そうか。
「吉崎のバンドの時間みたいだ」
僕が言うと、マサは苦々しげな顔つきで窓の外を見た。
「ああ、くっそ! むっちゃムカつくけど、あいつらの演奏聴いて騒ぎたくなってきた。俺も行ってやる。スナはどうする?」
「やめとく。行って来い」
苦笑して答える。マサはエプロンを付けたまま体育館へと駆け出した。
エッジのきいたギターの音と、ドラムの小気味よいリズムにのって、体育館の歓声がここまで届く。やっぱりいいな。うまいし、かっこいい。でも、僕らの演奏のほうが、百万倍はかっこよかった自信がある。
叶わなかった夢の残像に、僕はまたもやため息をついた。
三宅くんが学校に姿を見せたのは、僕が病院へ行った日から三日後のことだった。午前だけ顔を出した三宅くんは、昼休みを待って僕とマサにあらためて事情を伝えてくれた。すでに知っていた僕だったが、誰にも言わないと約束していた以上、マサにすら秘密にしていたため、心苦しかったがはじめて知らされた素振りをした。
マサは驚き、困惑し、戸惑って、でも誰も責められないので事情をのみこみ、三宅くんを励ました。三宅くんは僕らに何度も謝り、正面玄関で別れる間際、僕とマサに一枚ずつレコードをくれた。それは、喫茶店ではじめて聴いたスタイル・カウンシルのライブアルバムだった。
「ビニールかかってんじゃん。この新品、どうしたんだ?」
マサが驚く。姉さんに買ってきてもらったと、三宅くんは答えた。
「いいんだ。なんかさ、このアルバムに全部つまってる気がするから、受け取って」
「え?」
控えめに微笑んだ三宅くんは、ちょっとだけ視線を落とした。
「俺さ、みんなと練習してたとき、いつも思ってたことあるんだ」
「思ってたこと?」
僕が訊くと、三宅くんは小さくうなずく。
「きっとこの先、どんなに楽しいことがあったとしても、いまこの瞬間を超えられないんだろうなって。なんとなくさ、そんなこといつも思ってた」
だから、ありがとう。さようなら。ごめん。楽しかった。
めちゃくちゃ楽しかった。そんな思いがつまってるんだと、三宅くんは言った。
文化祭一日目、引っ越しのトラックに荷物を積み終わった午後、お姉さんの運転する車で釧路に向かうという。三宅くんがその日を選んだのは、きっと誰も見送れないからだ。
小さくなっていく背中を、マサと並んで玄関で見送った。そうして教室に戻ろうとしたとき、廊下のすみに渋谷を見つけた。
一瞬目があった気がした。でも、渋谷はすぐにきびすを返し、階段をのぼっていった。
深い事情までは広まらなかったものの、三宅くんの転校の噂はその一日ですみずみにまでいきわたった。
僕も落ち込んだけれど、マサはそれ以上だった。僕らに同情したいっくんが、ドラムをやってもいいぞと声をかけてくれたときも、
「あのバンドは三宅がいるからできたんだ。あっちこっちふらふらするようなヤツに、代役してもらいたくない。おまえはおまえのバンドをちゃんとやれ」
そう言って断るほどマサは落ち込み、僕とともにまだ復活できずにいる。
ノーザン・カウンシルは幻と化した。流行りのビートを刻む音に耳を傾けながら、ぼんやりと外を見ていると、ジャージとエプロン姿の渋谷があらわれた。調理するのに髪が邪魔らしく、今日は団子みたいにまとめている。
「吉崎のバンドの人気、マジですごい。いっきに人いなくなった」
そう言って笑うと、窓の外を見下ろした。
「じゃんけんに負けたのか?」
「参加してない。お客さん来なくても、お店番する人いないとだし」
「そっか」
押し黙ると、体育館の盛り上がりがはっきり聴こえる。しばらく無言で聴いていると、渋谷が言った。
「スナたちのバンド、聴きたかったな。どういうのだったの?」
「スタイル・カウンシルっていう、イギリスのバンドのコピー」
「そっか。なんかかっこよさそう。マジ残念」
そう言って外を見下ろす渋谷を、僕は見つめた。
だよな。ほんと、残念だ。
「……なんか、すまん」
思わず言う。
「は?」
渋谷がけげんな顔で僕を見た。
「いきなりなに? 不気味なんだけど」
「うん、まあ。なんかさ」
「なんかってなに?」
三宅くんが転校するなんて、予想もしなかった。明日も明後日もこの学校にいると思ったから、渋谷がいつか三宅くんとうまくいくとしても、それはいまじゃないような気がして、練習場所に誘わなかった。いや、誘えなかった。
それなのに、こんなことになるなんて。ほんと、最低だ。
先延ばしにしたかったんだ。渋谷が僕のライバルじゃなく、普通の女子になってしまうことを、できるだけ先にしたかったんだ。
ようするに、まだ誰ともつきあってほしくなかっただけだ。でも、そんなことで渋谷のチャンスをつぶす権利は、僕にあるわけもなかったのにな。
「ねえ、なんかってなによ」
渋谷の言葉を無視して、僕はとっさに教室をのぞく。じゃんけんに負けた女子と数人の男子が、暇そうにしていた。時計を見ると、午後を少し過ぎている。急げば間に合うかも知れない。いや、たぶん。きっと、まだ間に合うはずだ。
「行こう、渋谷。まだ間に合うかもしれない」
「行くって、どこに」
僕はジャージのポケットに手をつっこみ、エプロンをしたまま自転車の鍵を握った。
「三宅くんを見送りに行こう」
* * *
体育館から聴こえるアンコールの声援が、どんどん遠くなっていく。
うしろに渋谷を乗せて、僕はめちゃくちゃペダルを漕いだ。
秋の日差しが低い。空は真っ青で、雲ひとつない。
通りを抜けて、住宅街に入る。奥まったところにぽつんと建つ家が見えてきたが、駐車されている車も人影もない。焦る思いで近づき、見覚えのある家の前でブレーキをかけた。
窓にカーテンがなく、人の気配もしない。少しの家具を残して、もぬけの殻になっているのが遠目でもわかる。自転車をおりて、いつも練習をしていた倉庫に近づく。小窓から中をのぞくと、古いタンスと少しのダンボールがあるだけで、ドラムはどこにもなかった。
呆然とする僕に、渋谷が言った。
「誰もいないっぽい」
うそだろ。そんなバカな。こういうの、ドラマとかだと間に合うはずなのに、現実は残酷すぎた。それでも諦められずにとどまっていると、隣家のおじさんが庭から声をかけてくれた。
「三宅さんなら、昨日越したよ。挨拶に来てくれてたからね」
「え、昨日……っすか。今日じゃなくて?」
「業者さんの予定が早まって家の荷物がなくなったから、ホテルに泊まるくらいならって、息子さんが言ってたよ。お友達かい?」
「はい、まあ……。けど、わかりました。ありがとうございます」
力が抜けそうになりながらおじさんに頭を下げ、そのままうなだれる。
「……マジか」
すっかり気力が抜けてしまった。それでもなんとか自転車にまたがろうとしたとき、
「スナ。なんか、のど乾いた」
渋谷が言った。
シャッターの閉まった商店に自転車を停め、自販機に小銭を入れる。選ぼうとする以前に、売り切れていない缶ジュースは「はちみつレモン」だけだった。
「……やる気のない自販機だな」
文句を言いながらボタンを押す。
「べつにこれでいいじゃん」
渋谷もボタンを押した。二人してベンチに座り、缶を開ける。甘酸っぱい味がのどに落ちていく。人通りのまったくない通りを眺めながら、ひたすら飲む。やがて、息をつくついでに言葉がもれた。
「……すまん」
「だから、なにが? さっきからマジで不気味」
「間に合わなかった」
渋谷は両手で缶を包み、うつむいた。僕はなんとか言葉を続ける。
「でも、三宅くんの住所知ってるから、その……手紙とか書けるよな」
渋谷が少し笑う。
「スナの意外すぎる達筆な手紙もらったら、三宅くんウケるっしょ」
「うん、まあ。ってか、そうじゃなくてさ……」
「なに?」
「おまえもさ、書けばいいんじゃないか」
渋谷が僕を見た。なにかを察したらしく、とっさにそっぽを向くとジュースを飲む。僕も無言でジュースを口に運ぶ。
三宅くんのこと、好きだったんだろ? そう訊ねることができない。渋谷も黙ってジュースを飲み、ぼんやり空を見上げたり、ときおり通り過ぎるトラックに視線を向ける。
終わったんだと、なぜか思う。なにかが終わって、それはけっしてはじまらない。
たったいまのこの場所に、置いていくしかないなにか。そのなにかは、もう二度と手に入らないもののような気がした。
ふと、三宅くんの言葉を思い出す。
――きっとこの先、どんなに楽しいことがあったとしても、いまこの瞬間を超えられないんだろうなって。
「……帰るか」
ジュースを飲み干して、ゴミ箱に投げ入れる。
「だね。もう人戻ってるかもし、お好み焼き焼かないと」
そう言ってベンチから腰をあげた瞬間、なぜか渋谷は吹き出した。
「っつーか、もうはっきり言えばって感じ。ほんと、スナっぽいって言えばスナっぽいけどさ。マジで気まずいったら」
「なにがだよ」
「あんたに気づかれてるの、なんとなく知ってたし」
「え?」
「三宅くんのこと、あたしがちょっといいなって思ってたことだよ。気づいてたんでしょ」
「……あ、ああ」
「けどさ、三宅くん、C組の子のこといつも見てた。ほら、なんかキョンキョンみたいな、小さくてかわいい子。一年のとき同じクラスだったみたいだから、ずっと好きだったんじゃないかな」
知らなかった。
「そう、なのか?」
「一緒にバンドやってて、そういう会話しなかった?」
「……全然」
渋谷が笑う。
「まあ、スナとマサじゃ色気ないもんね。言えないか」
「悔しいがそうだな。いたしかたないな」
「だから、まあ。なんか、しょうがないって思ってた。そういうの、どうしようもないじゃん」
「まあ、そうかもだけど」
「だから、べつにいい。ほんとにさ」
そう言って、渋谷は僕の肩をベチンと叩いた。
「さ、帰ろ。先生に見つかったら、タダでお好み焼きごちそうしなきゃだから」
バンドの練習に誘わなくて悪かったと、僕は謝った。それが不気味な謝罪の理由かと、渋谷は呆れたように笑い、演奏が聴けなかったのは残念だが、それだけのことだと断言した。
すぐに強がるのは、よくない癖だ。本当はちょっとどころじゃない。きっとちゃんと好きだったはずだ。そんなの、おまえを見ていたらわかることだ。
なにかっこつけてんだよ。我慢すんなよ。バカなヤツだ。
でも、僕はなにも言わなかった。
ダサいジャージにエプロン姿で渋谷を乗せ、ゆっくりとペダルを漕いで来た道を戻る。
いろんな後悔とさびしさを抱えながら、こんなふうに学校に戻ろうとしているいまこのときも、いつか大人になったらただの思い出になって、そのうちに思い出すこともなくなるんだろうなと、なぜか思う。
――だから、味わえ。
そう、自分に言い聞かせる。
この行き場のないどうしようもない気持ちを、いまはただ、たっぷり味わえ。
もうすぐ校舎が見えてくる。ペダルを漕ぎながら息をするたび、のどの奥にかすかに残るはちみつとレモンの味が、少しずつ秋風に消えていった。
(了)
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