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1980:最強戦士の休息ココア[前編]

連作短編「茶飲みともだち」 #01

 市役所勤めの父とスーパーでパートをしている母、五歳年下の妹というごくごく平凡な団地住まいの我が家にとって、金髪の若いシングルマザーはかなりのインパクトがあった。
「隣に越してきた渋谷です。栄町の美容院で働いておりますので、お気軽にいらしてください。あと、よろしければこれ、どうぞ」
 派手な風貌は美容師だからかと納得した僕の母は、都会でしか手に入らない箱菓子に気を良くし、「砂川です。こちらこそよろしくおねがいしますね」と、手放しで歓迎した。
 控えめに微笑んだ若い母親が、肩越しに振り返る。
「ほら、トモミ。隠れていないで、ご挨拶しなさい」
 うしろから姿を見せたのは、色素の薄いくせ毛まじりの短髪で、つりあがり気味な大きな目の女子だった。
「……よろしくお願いします」
 渋々といった調子で、唇をとがらせながら頭を下げる。その様子を目にしたとたん、誰かに似ていると思った。でも、それが誰なのかはとっさに思いつかない。
「しっかりしてて偉いわねえ。何年生?」
「……四年です」
「うちのヒロキと同じだわ。西町小学校に通うの?」
 こくりと女子がうなずく。母が僕を振り返った。
「ほら、ヒロキ。お友達よ。あんたも挨拶しなさい」
 友達ではない。狭い廊下に突っ立っていた僕は、心のなかで文句を垂れつつ、
「……どーも、お願いします……」
 照れくさく思いながらぼそぼそと言って、ぺこりと頭を下げた。すると、女子は僕をにらむように凝視した。なんだよ、おい。僕も負けずににらみ返す。そんな小学四年生同士を尻目に、母親たちはなごやかな世間話を続け、なにかあったらなんでも言ってくださいとその場を締めくくるにいたった。
 夕ご飯どきに父が帰って来るやいなや、母はあらたな住人についてうきうきとしゃべり続けた。
「百恵ちゃんに似てるんだけど、なんとなく影があるのよねえ。きっと苦労したんだわ。笑ってるんだけどどことなく哀しそうな人って、わかるじゃない?」
「わかるのか? 俺にはわからないぞ」
 僕も父に同意だ。
「わかるわよ」
 むくれた母は妹を座らせ、自分も席につく。そのとき、僕はアニメのキャラクターがプリントされた妹のお椀をなにげなく見て、はっとした。
 そうだ、あの女子。渋谷トモミはこいつに似ている。
 ムーミンにでてくる、ミイだ。
 だが、人のことは言えない。なぜなら三白眼の僕は、スナフキンに似ているともっぱらの評判だったからだ。なるほど。どうして渋谷トモミが僕をにらんでいたのか、腑に落ちた気がした。僕の推理が正しければ、やつもまた僕が誰かに似ていると考えたのだ。けれどもそれが思いあたらず、苛立ちにも似た感情を抱いたせいで、あの眼光になったのだろう。間違いない。
 なんにせよ、やつの考えが手にとるようにわかるなんて、奇妙だ。
 ライバルだ、と思ってしまった。そう、やつは女子だけど、僕のライバルだ。
 負けられない。なんに対して負けられないのかは謎だったが、とにかく負けられないぞ。僕はその日、なぜだかそう思ったのである。

* * *

 渋谷トモミは、怖かった。
 人口約二万人。北国のさらに北のさいはてのまちの小学校にも、女子らのカーストは存在していた。札幌から来た洒落た転校生として迎えられた渋谷トモミは、カーストトップの女子らの羨望と嫉妬を即座にかってしまい、さっそくひとりぼっちにされていた。だが、渋谷はそんなことどこふく風で、休憩時間も放課後もいつもなにかをにらんでいた。空や雲、校庭やカラス、ときどき給食にでるコーヒー牛乳なんかを。
 群れない女子は、どことなく大人びて見える。僕にとって渋谷は、同じカテゴリー(ムーミン谷)に属するライバルにすぎなかったのだが、おどろくべきことに男子らの間では、ほんの数日の間に密かなアイドルとなっていた。とくに、サッカー少年団にはいっていた爽やか王子、山本シュウタくんの興味度はすごく、あまり話したことのない僕にさえ、
「スナくんさ、渋谷さんと同じ団地なの?」
 なんて訊いてくるほどであった。
「そうだけど、家でる時間とか違うし、全然仲良くないぞ」
 ライバルだからな。僕の返答に気をよくした山本くんは、嬉しそうに笑った。そんな笑顔を横目で見ていたのが、四年三組の女番長、藤村サオリである。小学生ながら松田聖子を完全に意識しまくっていた藤村サオリは、目立った男子らの前ではかわいこぶるのだが、僕のようにカースト底辺に属する男子どもには容赦がなかった。そういうわけで、藤村サオリの嫉妬の視線に気づいた僕は、これはなにかあるぞと予感した。
 同じ日の放課後、その予感は的中する。
 その日、学校をでた僕は、習字教室を目指して歩いていた。流行りの野球でもサッカーでもなく習字を選び、息子にやらせようとする母のセンスは嫌いじゃない。だって、うんと年をとったとき、野球やサッカーはできなくなるけれど、字がきれいなことって自慢にできると思うから。そんなことを考えながら住宅街を歩いていると、ネットフェンスに囲まれた小さな公園の滑り台の奥に、漫画みたいな場面のかたまりを発見してしまった。
 藤村サオリと女子三名が、渋谷トモミを囲んでいたのだ。
 うわあ、と思った。うわあ、無視しよう。なにも見なかったことにして通りすぎ、道を曲がろうとしたとき、藤村サオリが渋谷トモミの肩を押すのが目の端に入り、立ち止まる。
 渋谷トモミとは仲良しではない。ライバルだし、やつがどうなろうと僕には関係がないのだ。週に一度の習字教室に遅れたら、村井先生の奥さんの手作りクッキーとおいしいココアにありつけなくなる。ふたたび歩きだそうとしたとき、藤村サオリの下僕らがこぞって渋谷を突き飛ばしはじめた。いや、それはさすがによくない。
「おい、なにしてんだよ」
 ネットフェンス越しに、震え声をあげてしまった。藤村サオリと下僕ら、渋谷トモミが僕を見る。直後、僕は己のささやかな正義感に後悔した。だが、もう遅い。藤村サオリの下僕の一人が、鬼の形相になった。
「うるっさい。帰れスナフキン」
 その言葉を耳にした渋谷トモミは、まるでたったいま判明したとでも言うかのように、僕を見すえたまま目を見張った。いまわかったのか、ニブちんめ。そんな渋谷にかまわず、僕は下僕女子に言う。
「そんなことしてても、男子にモテないぞ」
 藤村サオリがちょっとひるむ。だが、べつの下僕が言った。
「あんたにモテる気ないし」
「わかってるよ。そうじゃなくてさ。俺がこのこと山本くんに言ったら、どうだろーなってこと」
「は?」
 青ざめた表情の藤村サオリが、ネットフェンスに向かってきた。
「あんたの言うことなんか信じるわけない。嘘ついてるって言えば、わたしのこと信じてくれるよ。幼稚園のときから仲良しだもん!」
「わかんないぞ」
「わかるよ! だって、あんたなんかスナフキンに似てるの顔だけで、いつも静かで不気味で幽霊みたいだって、シュウくん言ってるもん。そんなあんたの言うことなんか、シュウくんは絶対信じない――」
 藤村が言い終える前、渋谷トモミの握りこぶしが藤村の肩を突いた。痛いと叫んで振り返った藤村の右頬を平手打ちし、秒速の連続で左頬も強く打った。
 両頬を手でおさえた藤村は、うしろによろめきながら「なによ」と叫び、「痛い痛い」と泣きだした。下僕らが藤村をかばったとき、ランドセルをおろした渋谷はそれを振りまわし、ドスのある低い声で叫んだ。
「次、こんなことしたら、おまえらのその髪の毛とか着てる服とか、ぐしゃぐしゃにハサミで切り刻んでやるからな!」
 それは渋谷が、はじめてはっきりと声をだした瞬間だった。少ししゃがれたような低い声と、都会的な荒っぽさを秘めた威嚇言葉に、小さなまちの小学生は完全にちびる寸前までいった。藤村らは、渋谷が泣くところを見たかったにすぎないのだ。だが、渋谷ははるかに強かった。強く、そして、怖かったのである。
 藤村たちは、逃げるように去った。ネットフェンス越しに呆然と立ちつくしていると、渋谷はランドセルを背負いなおし、僕を見た。
「……あんた、いじめられてんの?」
「え?」
「影でなんか言われてるみたいだから。不気味で幽霊みたいとかって」
 僕は苦笑する。
「いや、それ影でじゃなくて、俺も知ってんだ。だからべつに気にしてない」
「ふーん……なんかへんなの。まあ、あんたも知ってんならいいけどさ」
 僕に近づくと、半ズボンのポケットからガムをだし、ネットフェンスごしに差し出してきた。コーヒー味でもコーラ味でもなく、ペンギンマークのミント味。大人が噛む辛くてまずいやつだ。
「いや、遠慮する。ありがとう……」
 渋谷は無言で一枚くわえ、平然と噛みながら僕に背を向けた。茶色い髪に西日があたって、金色に見える。
「あの……なあ、おい」
 渋谷はどうしていきなり、あんなふうにキレたんだろう。
「なに」
「さっき。なんでさ、あんな怒ったんだ」
 立ち止まった渋谷は、少し黙ってから口を開く。
「あんたが弱いのかなって。あたし、自分はどうでもいんだけど、弱い者いじめとかほんとやだから。でも、違ったみたいだからべつにいい」
 なんだよその、かっこいい感じ。っていうか、僕が弱いとはなんだ。僕たちはライバルだ。それなのに、こいつのほうが人として先輩に思える。それがどうにも悔しい。
「……いいだろう。ひとつ貸しにしてやる」
「は? なにがさ」
「なんかさ。なんか俺が、おまえに助けてもらったみたいな感じになってるからさ。だから、もし次、おまえになんかあったら、次は俺が助けるからな」
 渋谷はぽかんとし、
「どーでもいいよ、そんなの」
 ネットフェンスにしがみつく僕を、にこりともせずじいっと見つめてくる。
「砂川だから、スナって呼ばれてるのかと思ってた」
「うん、まあ。それもある」
「ふーん」
 そうささやいた渋谷は、どこへ行くのかと僕に訊く。習字教室だとわかると、たいていの女子は冷ややかな視線を向けてくるのだが、こいつは違った。
「へえ。きれいな字書けんの、いいね」
 見どころがあるじゃないか。そのとおりだぞ。僕がうなずくと、
「じゃ、明日な。砂川スナフキン」
 ガムを噛みながらそう言い残し、凶暴なショートカットのミイは立ち去ったのである。

* * *

 水曜日の生徒は、僕だけだった。なにを書くかは僕次第で、それを見た村井先生が、一時間指導をしてくれるのだ。
「カタカナは難しいです」
 半紙にしるされた「ライバル」の文字を見下ろすと、村井先生は朱墨のついた筆でとめやはねをなおしてくれた。
「そうですね。カタカナはバランスがとても難しいです。ライバルを日本の言葉でなんと言うか知っていますか?」
 村井先生はすっかりおじいちゃんなのに、こんなこどもの僕にも丁寧な言葉で接してくれた。
「わかりません」
「好敵手です」
 半紙のすきまにさらさらと、筆の先で書いて教えてくれる。先生の字はとてもきれいで、見ているだけでなぜか気持ちがすっきりしてくる。
「好ましい敵。この相手がいるから自分も負けられないと思える。そのような相手をこのように書きます。書いてみますか?」
「はい。書いてみたいです」
 ――好敵手
 とめとはね、バランスに気をつけながら、半紙五枚に丁寧に書いた。なかなかの出来栄えの一枚に、村井先生は二重丸をくれる。本日自慢の作品が仕上がったところで、すっかりおばあちゃんな村井先生の奥さんが、クッキーとココアを持ってきてくれた。ほっくりと焼かれたクッキーは、ほんのりと甘いバターの味がする。そしてココアは、やはりほっぺが落ちるほどおいしかった。
 どうしてこんなにおいしいのか、奥さんに訊いたことがある。ちょっとだけ砂糖をいれたミルクでココアをとかすのが秘訣らしい。でも、母にねだってつくってもらっても、同じ味になったためしがない。いったいなにが違うのか、いまだに解明できないでいる謎だ。もしかすると先生の奥さんは、魔女かもしれない。
「私にも好敵手がいたのですよ」
 湯気のたつお茶を飲みながら、先生が言った。
「そうなんですか」
「はい。私も彼も勉学に励み、常に競いあう好敵手でした。ともに戦争を生き抜き、すべてを失って樺太から引きあげてきた間柄です。そうしてこの地に落ち着いて食べ物を分かちあっているうちに、やがて『茶飲みともだち』となりました」
「え?」
 はじめて聞いた友達の種類に戸惑うと、先生は目を細めて微笑んだ。
「こうしてなにかを飲みながら、とりとめもなくおしゃべりをする友達です。べつにお茶じゃなくてもいいんですよ。お酒や珈琲でも、ジュースでも。そういったものを飲みながら、つかず離れずおしゃべりをして、深くも浅くもなくつきあう。彼は結果的に、もっとも長くつきあった、よき友となってくれました」
「じゃあ、いまもなにか飲みながら、おしゃべりしてるんですか?」
 先生は、どこか懐かしむような笑みを浮かべる。
「私の友は、いずれ誰もが向かう場に、先に旅立ってしまいました」
 祖母の葬式で、誰かが似たようなことを言っていたのを思い出す。きっと先生の友達は、先生よりも先に亡くなったのだ。
「……そうですか」
 僕はこういうさみしい感じが苦手だ。とくに、自分の気に入っている人がしんみりするところは、あんまり見たくない。
「じゃあ、僕が先生の茶飲みともだちになります」
 ふふふと先生は笑う。
「砂川くんはすでに私の茶飲みともだちですよ。こうしてお互いなにかを飲みながら、おしゃべりをしていますからね」
「あ、そっか」
 僕が目を丸くすると、先生は嬉しそうに笑ってくれたのだった。

[後編(#02)に続く]


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