[短編小説]これは恋じゃない
毎週金曜日の夜は、『暗黙の了解ナイト』だ。
どちらからともなく連絡をとりあって待ち合わせ、デパ地下やコンビニで惣菜とビールを買い、僕の部屋で映画を見る。壁に大画面を映すプロジェクターとコーヒーテーブル、人をダメにするソファしかない僕の部屋に来るたび、十年来の友人は苦笑する。
「またなにか捨てたでしょ」
「捨ててないよ」
「ほんと? 間違い探しするよ」
「いいよ」
僕がテーブルに今夜の食事を広げてプロジェクターの調節をしている間、彼女はあちらこちらを探りまわる。やがて、キッチンで「あっ」と言った。
「グラスが一個ない。三個あったじゃない? セットのやつ」
今度は僕が苦笑いする。
「見つかってしまった。探偵に転職したらどう?」
「なんで捨てたの」
そう言うと床に座って足をのばし、ビールをあける。
「うちに来るの、きみだけだもの。三個もいらないからさ」
彼女はビールを飲み、小さく笑う。
「まあ、そうかもだけど。でも、ちょっとはムダだって思えるものも残してくれないと、落ち着かない」
「落ち着かないって、なんで?」
「そのうち私も捨てられそうだから」
「そんなことしないよ」
ぎょっとして言うと、彼女はスルメを噛みながら笑った。
「わかってるって。冗談だよ、ミニマリストさん」
行きつけの焼き鳥屋で仲良くなった。当時は僕にも彼女にも恋人がいて、なんとなく四人で遊ぶようになった。そうして気づくと、お互いの恋人が知らぬ間に仕上がっていて、僕と彼女は「浮気された者」同士、呆然とする感情を共有しあい、飲んだくれて愚痴まくり、そうしているうちにこんな関係に落ち着いたのだった。
十年の間、お互いに恋人ができたり別れたり、転職をしたり引っ越しをしたりしたけれど、なぜか一度たりとも連絡が途絶えることはなかった。そうして三十歳を過ぎたころ、僕らの『暗黙の了解ナイト』がはじまったのだ。
僕の恋人いない歴は二年、彼女は三年を経過している。クリスマスも誕生日も一緒。実家に帰らないお正月も共に年を越し、初詣に行った。でも、つきあっているわけじゃない。これは恋じゃない。そういうのじゃないことは、僕も彼女もわかっている。
ただ一緒にいる。時間が止まっているカプセルの中で、お互いにこの居心地のいい関係に甘えているだけだと知っていた。
「あ、この映画観たい」
彼女が選んだのは、老いた夫婦がニューヨークの眺めのいい部屋を売りに出す物語だ。二人して壁に背中をくっつけ、ビールを飲んで餃子や漬物をつまみながら、真正面の大画面で繰り広げられる人間模様を鑑賞する。
「いいな。こういう夫婦、憧れる」
クライマックス間近、ふいに彼女がつぶやいた。
「うん」
やがて、エンドロール。老夫婦の素敵な決断に、僕も彼女もほんの少し涙した。
「ティッシュちょうだい」と彼女。
「ほい」と僕。
彼女はティッシュで涙を拭き、ずずっと鼻をかんだ。
「いい映画」
「うん。よかった」
「けどさ、もしも若いころに見てたら、たぶんここまで刺さってない気がする」
「そんな刺さった?」
「刺さるよ。モーガン・フリーマンかっこいいじゃない」
「刺さったのはそこか」
僕が笑うと、彼女も笑った。
それから適当に動画をむさぼり、僕は職場の不協和音について愚痴り、彼女はインスタで見かけた素敵な靴を買うべきか悩んでいることについて語った。ビールも惣菜もおおかた空になった二十三時、彼女がスマホを見た。
「もうこんな時間か。そろそろ帰るかな」
「うん。気をつけて」
僕がテーブルに散乱するゴミをビニール袋に捨てていると、彼女はスマホに指を這わせながら、どことなく困ったように眉根を寄せた。妙な書き込みのSNSでも見ているのだろうか。
「あー……ごめん。なんか、やっぱさ」
「なに?」
「うん。やっぱさ、泊まってもいい?」
「べつにいいけど、どうしたの」
徹夜で過ごす年越し以外で、彼女が泊まりたいと言いだしたのははじめてだった。気になって訊ねた僕に、彼女はあっさり答えた。
「なんか、帰るのが面倒くさくなっただけ」
床に敷いた布団に彼女が眠り、僕は寝袋で横たわる。藍色の夜の明かりが、ブラインドのすきまからかすかに差し込んでいて、壁を向いている彼女の頭を照らしている。もう眠ったのか、微動だにしない。と、ごそりと彼女の頭が動いてこちらを向いた。目は閉じている。やっぱり眠っているんだと思い、僕もまぶたを閉じて寝返りをうったとき、彼女が言った。
「……起きてる?」
なんだ、起きていたのか。
「うん、起きてるよ」
「あのさ」
「うん?」
「あのさ。昨日、取引先の人からお菓子もらったんだ。みんなにじゃなくて、私にだけくれたの」
「へえ」
「東京に出張で行ってたみたいで、流行ってるお店の小さくてかわいいお菓子でさ」
「いいじゃん」
「うん。でさ、きれいにラッピングされたお菓子に付箋があって、食事しませんかって、自分のメアド書いてあったの。仕事とかじゃないっぽいGメール」
目を開けた僕は、振り返った。
「そっか」
彼女はまっすぐ、僕を見つめていた。その眼差しは、まるで二度と鑑賞できない絵画を、記憶に刻もうとしているかのようだった。
「その人、わりと人気あるの。背が高くてしゅっとしてて、かっこいいっていうか。でも、私の好みじゃないんだ。私、かわいい感じで小柄な人のほうが好きだから。それに」
「それに?」
「……なんかさ、予感するの。いままでなかった予感」
「どういう予感?」
「もしもあの人とつきあったら、結婚するんだろうなっていう予感」
時間の止まっていたカプセルに、ヒビが入る。胸が一瞬、ざわついた。
「……そっか」
僕はふたたび壁を向く。
「つきあうの?」
「どうかな……どうなるのかはわかんないけど。でも、お菓子のお礼のメールはしたんだ。そうしたら、さっき返事がきてて、ご飯食べに行こうって。断ることもないから、行ってみる」
「そっか」
「うん」
沈黙が流れる。カプセルのヒビが大きくなっていく。目を閉じると、自分の鼓動がやけにはっきりと鼓膜を響かせた。
彼女の吐息が聞こえる。
「なんかさ……その人、見た目は好みじゃないんだけど」
「……うん」
「雰囲気っていうか、空気感が似てるんだ」
「前の彼氏?」
違う、と彼女が言う。そして、僕に似ているのだと言った。
居心地のよさそうな空気感。きっと好きなものが似ているんだろうなと思える気配。でも、似ていないところもあると彼女は続ける。
「あの人の近くにいると胸がふわっとして、それなのに緊張するの。よく知らない人だからとかじゃなくて、うまく言えないんだけど……」
それは、ときめきだ。大人になると稀有な現象になってしまう、恋のときめき。
「なんて、なんかごめん。こういうの、比べているみたいで失礼だよね。酔ったのかも、ごめんなさい」
「いいよ、失礼じゃないよ。わかってる。大丈夫」
僕らはいつの間にか、友情という名の聖域から抜け出せなくなった。居心地のよさに甘んじているうちにタイミングを逃し、恋になる前になにかが終わってしまった。そのなにかは、たぶん、一生に一度のものだった。
「うまくいくよ」
空気感が僕に似ているのに、胸のときめく相手なら、きっと。
「そう思う?」
「うん。思う」
ヒビ割れたカプセルの隙間から、止まっていた時間の進む秒針が聞こえてくる錯覚を覚える。目を閉じようとした寸前、
「あのさ」
彼女が言う。
「うん」
「あのさ、こっち、こない?」
暗がりの壁に、ブラインドの影が筋になって浮かんでいる。
この十年で一度だけ、際どい夜があったことを思い出す。お互いかなり酔っていて、やけにさびしくて、慰めあうようなキスをした。そうして身体を寄せあおうとしたとき、よくないことをしているような罪悪感と違和感に、なぜか突然おそわれたのだ。それは彼女も同じだったらしく、二人同時に醒めてしまった。以来、僕らの関係は停止した。
育たない想いを捨てられず、ただ迷子でいる。
もしかすると、彼女は怖いのかもしれない。このカプセルから外に出ることを、躊躇しているのかもしれない。それで、出なくてもいい理由を作ろうとしているのかもしれない。
よくわかる。痛いほどわかる。だけど。
「……シングルの布団からはみでたら寒いから、このままでいいよ」
壁を向いたまま、僕は布団のせいにする。すると、彼女は笑ったような吐息をもらした。
「だよね。おやすみ」
「うん。おやすみ」
翌朝目覚めると、もう彼女はいなかった。きちんとたたまれた布団が壁の隅に置かれてあるのを目にしたとき、僕は『暗黙の了解ナイト』の終了を悟った。
連絡が途絶える。僕も連絡をしないし、彼女もしてこない。金曜日の夜はUberを頼り、大画面で芸人の動画を見る。そんな習慣に慣れはじめたある夜、街中を歩いていて彼女を見かけた。
一緒にいる彼がなにか話す。彼女はうなずき、笑う。あんなにきれいな彼女を見たのは、はじめてだ。それで、彼はいままでの恋人とは違うと直感した。きっと、彼女の予感のとおりになる。
二人とすれ違う前に地下街に入り、コンビニに立ち寄った。適当に買い物をすると、くじを引くはめになる。いつもは断るのになんとなく引いてしまい、あろうことかキャラクターの絵柄のお皿を当ててしまった。
いりませんと言おうとしたとき、ふいに彼女の言葉が蘇り、たまにはこんなムダも悪くないかと思い、受け取ることにした。
いたるところに彼女がいる。そばにいないのに、そばにいた。それでも、これでよかったんだと思う。時間の止まったカプセルの中に、大切な友達を閉じ込めなくてよかったのだと心から思う。
僕の部屋にムダなものがひとつ増えたとき、やっと気づいた。
ああ、そうか。
これは恋じゃない。
愛だったんだ。
(了)
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