幻想鉄道奇譚 #4
暗い窓に、ランプの灯りが映っていた。
アイロン台にシャツを広げ、小型のランドリーストーブにのった鉄製アイロンの把手を握る。
灰色の髪と口髭にはきちんと櫛がとおされており、洒脱な印象を与える壮年の紳士は、ランニングシャツに綿のスラックスという格好で、鼻歌まじりにアイロンをかけていく。
乾きたての真っ白いシャツが、皺一つなくぱりっとしていくさまを眺めるのは、うら若い乙女の血をコップ一杯飲み干すのに匹敵する快感だ。もっとも、ワインとステーキさえあれば一連の衝動をおさえられると学んでからというもの、すっかりご無沙汰の味なのだが。
あの高揚する味がなくとも充分に生きていけるこの現代には、なんと興味深いものが多いことだろうとしみじみする。そう、たとえば煙草だ。それから、やはりワイン。チョコレートと珈琲。そして、なんと言っても忘れてはならないのが、このアイロンだ。こうしていると天にも昇る夢心地、最高の気分ではないか――。
「入っていいかね、ゲイル」
「もう入っているように思えるのは、私の気のせいですかな? ミスタ・ベネット」
前身頃にアイロンをかけ終えたゲイルは、後ろ身頃にとりかかりながら苦笑し、ドア口を一瞥する。ぽってりとした体型を上着に押し込めているベネットは、帽子を取りながら息をつき、言った。
「それは失礼。君らの下っ端を一人決めたと伝えにきたのだよ」
まったく、余計なことを。眉を寄せたゲイルは、小さく嘆息する。
「私とレニーだけで充分だと、口を酸っぱくしてお伝えした記憶があるのですが?」
そうだったかなとベネットはとぼけた。問いつめるのをあきらめたゲイルは、シャツを広げると手のひらでしわを伸ばしていく。
「それで? 今度こそ使えそうな者なんでしょうな」
「さて……まあ、なんとかなるだろう」
ゲイルは動きを止めた。ベネットの煮えきらない返答には、細心の注意が必要なのだ。
「ミスタ・ベネット。私とレニーが〝普通の車掌〟ではないことをご存知でしょう? それ相応のわけがあって、〈エンチャンテッド・スターズ号〉に乗車していることもご存知のはずです。違いますか?」
ベネットは面倒そうに吐息をついた。
「君らの激務っぷりが気がかりなのだよ。日々の疲労と寝不足のせいで、君らの〝本能〟が暴走するくらいなら、多少使えなくとも使いっ走りになりそうな人間を足したほうがマシではないかと、何度提案しても聞き入れてもらえないのでね」
口をつぐんだゲイルは、しばし沈黙してからまたアイロンの把手を握った。
「……そう言って足された過去の使いっ走りは役に立たず、一往復で逃げるように辞めていく。そのたびに見聞きしたものを他言しないよう、彼らが小便を垂らすほどに私が強く脅してきたのです。それでなくても〈エンチャンテッド・スターズ号〉は、B・Bに目をつけられているのですよ。内務大臣があたらしくなってからというもの、Aへの締め付けは厳しくなる一方です。いつB・Bが乗車するともしれない状況にあって、いま以上の面倒は勘弁願いたいものですな。ミスタ・ベネット」
サウスシティから西に十キロ。牧歌的な風景のなかにある駅舎の二階、車掌室のドア口にいまだはりついているベネットは、帽子をかぶりながら息をついた。
「新世紀をむかえる数か月後に、我が社は合併されてあとかたもなくなる。古い〈エンチャンテッド・スターズ号〉は、資料館行きが決まっている。かつては栄えていた村々の駅舎だって、いまやほぼすべて無人の赤字路線だ。あと数回の往復で廃線になるのだから、その間に君らの本能が目覚めなければ、私はそれでいいのだよ」
そう言って、ベネットは背中を向けた。ゲイルがアイロンを置く。
「……それで? その下っ端はAですか」
「いいや、違う。おおいなる挫折経験者の、真面目そうな若者だよ」
「おおいなる挫折経験者?」
「エーテル修復を大学で学んでいたものの、卒業試験にパスできなかったそうだ」
ゲイルは納得する。Aはエーテル修復師になれない。誰であろうとグローブをはいてもエーテルは反応しないうえ、エーテルを集める周波数の声を発することができないからだ。
「なるほど。間違いなく人間ですな」
「ああ。ひょろっこくて眼鏡をかけた、気弱そうな青年だったよ」
ゲイルは失笑した。
「おやおや……それじゃいないほうがマシですな」
もっともな苦言を、ベネットは無視した。
「君らが休憩をとる間、乗客を見張ることぐらいはやるだろうさ。次の出発から乗車する予定だ。その旨をレニーに伝えてもらえると助かるんだがね」
しかたがない。これみよがしにため息をついて、ゲイルはシャツの袖を伸ばす。
「しぶしぶですが承知いたしました。それでその〝おおいなる挫折経験者〟は、もちろんこの悪名高き仕事内容について、まったく把握しておられないのでしょうな」
「車掌の補佐ということ以外は、なんにも知らんよ」
未来のないわけありの列車で働くことになろうとは、なんとも不運な若者だ。ゲイルが鼻で笑うと、ベネットは去り際に言った。
「私は合併後も残ることになっているが、君らは残れん。そろそろ身の振りかたを決めたほうがいい」
ふっくらとした背中を見送ってから、ゲイルはアイロンをストーブに戻し、新品同様のシャツに袖を通す。胸ポケットには赤と青の糸で、〈K・S・R〉のロゴが刺繍されてある。
その刺繍にそっと手をそえてから、シャツを脱いでクローゼットのハンガーにかける。くたびれたフランネルのシャツを羽織って煙草に火をつけると、ゆっくりと一本吸った。吸い殻を灰皿に捨て終えるとストーブを消し、ランプを持って廊下にでた。
きしむ階段をおりて、駅舎の奥へと歩みを進める。つきあたりのドアを開け、地下室におりていく。
「またミスタ・ベネットが、私たちの下っ端を勝手に決めてしまったようです」
そう言ったゲイルはランプを床に置き、椅子に腰かけた。
「気弱そうな青年だそうですから、例のごとく一往復しかもたないかもしれないですな。まあ、そのほうがいいでしょう。それとも初対面から冷たく接して、すぐに辞めるようしむけましょうか。むしろそのほうが彼の身のためかもしれない。どう思いますか、レニー?」
脚を組みながら、鉄格子の奥を見る。白い毛並みの狼は、鋭い目つきでゲイルを上目遣いにすると、小さくうなった。同意しているらしい。
「毎度のことながら満月のたびの変身、ご同情申し上げますよ」
ふん、と狼が鼻を鳴らす。この姿のときのレニーはうまく話せないので、年甲斐もなくからかうのを楽しんでしまう。
鉄格子には、車掌用の制服がかかっていた。ジャケットのポケットには相変わらず、花びらが変色しているバラの造花がしのばされている。ふとシャツのしわに気づいたゲイルは、小さく微笑んだ。
まだしばらくは、高揚した気分が味わえそうだ。
ほんの少し、あと少しだけなら。
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