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幻想鉄道奇譚 #20

 貨物車両の仕切り部屋に隔離された男性は、ブラッドと名乗った。先に海を渡った恋人に続き、ミンタカ島へ向かうのだそうだ。

「症状がひどくなってる。ずっと手の震えが止まらないんだ」

 車両内の天井には小さなランプが一つ下がっているが、仕切り部屋には灯りがない。薄暗い周囲に目を凝らしながら食事を届けると、簡易ベッドに腰かけていたブラッドはそう言って、エイダンに両手を見せた。たしかに、小刻みに震えている。それにくわえて顔色の悪さが増しているのは、この暗さのせいだろうか。

 テーブルに食事を置いたので、一礼して去ろうとしたとき、まだいかないでくれと懇願された。正直なところ、彼と二人きりでいるのは緊張する。そんなエイダンの内心を読んだかのように、ブラッドは震える手でスプーンを握りしめ、スープを口に運びながら謝罪した。

「……あのときは悪かったよ。けど、俺にはどうしようもない。騒いだり誰かを襲ったりしちゃだめだって思えば思うほど、頭のなかが混乱してそうしちまう。そのせいでソフィアにもいやな思いをさせちまった。けど、もう違う。ミンタカ島にいきさえすれば、この症状もだいぶよくなる」

 落ち窪んだ目をエイダンに向けると、安心したかのように微笑む。

「ソフィアからの手紙に書いてあったんだ。不便だけれど気持ちが落ち着いて暮らしやすいって。それにこの前は、庭で妖精を見たんだとさ。妖精だぞ? 妖精なんてガキのころに見たきりだ。あいつらもミンタカ島に逃げてたんだな」

 エイダンはいつでも立ち去れるよう、開け放ったドアを背中にして立ち、無言で聞いていた。ブラッドの声に列車の律動音が重なって、うまく聞き取れない。そんなエイダンにかまうことなく、ブラッドは気分よさそうに口を動かす。

「……吸血族に生まれたかったわけじゃない。学校にもいけなくて、日差しを避けて生きることに嫌気がさして家を飛びだした。異国のキャバレーで護衛めいたこともやった。そこで似たような境遇のソフィアに会ったんだ。二人して夜の世界を生きてきた。安い肉と安酒さえあれば、他人の血を欲することはない。そのうちに慣れて平気になっていく」

 とりとめのない言葉をきってパンを食べ、語りかけるようにエイダンを一瞥する。

「けど、俺はどうしても日差しを浴びられない。肌が焼けただれたみたいになっちまう。強い吸血族のやつなら帽子があれば平気だそうだが、俺にはそれだけじゃ無理だ」

 肉体の老いはゆっくりで、人間の寿命の数倍を生きることができる。けれどそれはブラッドにとって、太陽の下でのびのびと歩くことのできない年月を意味した。大変なことだとエイダンが同情を覚えたとき、「でも」とブラッドは晴れやかに微笑んで見せた。

「ミンタカ島なら、煙草の煙みたいなさいはての雲がいつも空をおおっていて、日差しを隠してくれているらしい。だから、ソフィアはときどき昼間も外にでているそうだ。ソフィアにできるんなら、俺にもできるかもしれない。そうだろ?」

 瞳をきらめかせるブラッドにつられ、エイダンは笑顔でうなずいた。

「ええ。そうですね」

 食事をきれいに終えたブラッドは、安堵したようにベッドに横たわった。終始落ち着いている彼の様子をクーパーに報告すると、終着駅まで仕切り部屋で過ごしてもらうことに決まった。いまここで乗客用車両内の部屋に戻し、もしもまたなにか起きたら、今度こそ〝五号車のB・B〟に気づかれるかもしれない。その危険は避けるべきだというのが、クーパーの意見だった。エイダンとスミスも同意する。

「今夜を越えたら、終着駅まで一日です。なにごともなくお客様を見送るために、ここで気をゆるめないようにお願いしますよ」

「わかってるさ」

 スミスが言う。しかしエイダンは不安だった。ギャレットの態度がとっさに脳裏をよぎり、あんなふうにあっさりと引きさがってくれたのには、なにか理由があるようにいまさら思えてきたからだ。

「いいですかな、カミングス君」

 クーパーの声音に、思考が戻る。「はい」と返事をすると、クーパーが念を押すようにまた言った。

「ぼんやりして気をゆるめず、常に引き締めてください。五号車のB・Bが存外おとなしいので、もしもなにかしらの行動にでるのならそろそろだろうと、個人的に予感をしているところですので」

 スミスがはっとする。

「どういう意味だ、ゲイル?」

「この列車に乗車したからには、なにかしらの情報を得たいはず。しかしこのままでは、手ぶらで下車することになります。おとなしくそうするとは、どうにも思えなくなってきましてね」

 エイダンは表情をこわばらせた。つまり、ようするに。

「罠を仕掛けたりするのではないか……ということでしょうか」

 スミスが瞠目する。クーパーは眼差しを険しくさせた。

「そういうことです」

 この先は、北からの突風を受ける土地にはいっていく。初秋ということもあって、天候が不安定になることが予想された。ただの雨ならばかまわないが、突風や雷をともなう嵐となれば話は別だ。それに刺激されるAは少なくない。クーパーはそう説明する。

「天候不順に乗じて、罠を仕掛けてくるかもしれません。そうではないにしても、なんらかの行動にでるかもしれません。どちらも私の予想にすぎませんし、案外おとなしく下車するかもしれませんが、どちらにしてもこれまで以上に注意を払う必要があります」

 スミスは表情を固くさせながら、うなずいた。列車の要を握っているグリーン兄弟に、車体の異変に注意を払うよう助言するため、クーパーが車掌室をでていく。ブラッドの見張りを担当するスミスも、パトリックとゾーイに伝えると言う。

「君はここにいて、ゲイルの指示を待ってくれ」

「わかりました」

 一人残されたエイダンは息をつき、帽子をとって長椅子に腰掛けた。

 嘘をついていることに、ひどい罪悪感を覚えてきた。ギャレットについて知っていることを、なにもかも伝えたほうがいいように思えてくる。せっかく軟化した二人の態度が、またもや冷たくなろうとも、そのほうが乗客のためでありこの列車のためだ。

「……そうだよね。いまならきっと、まだ間にあう」

 そうしよう。クーパーが戻ったら、あらいざらいすべて話してしまおう!

 そう決意したものの、どうにも胸のざわつきはおさまらない。なにげなく見たデスクの隅に新聞があり、気分を変えるために手にとった。サウスシティを離れる前日のものだったが、読んでいなかったエイダンは女王陛下が他国に渡った記事に目をとおす。いくつかの小さな出来事や宣伝を流し見しながらめくったとき、心臓が大きく跳ねた。

 フィリップス卿、長年の夢叶い後継者発掘す! 

 オルコット男爵家御子息ギルバート氏に、フィリップス・アンド・エーテルプロダクツ社の第一級エーテル・デザイナーへの就任を約束!

 肩を組み合う二人の写真が、記事の横にあった。自分と同室だった青年の笑顔が、エイダンの頭のなかをいっぱいにしていく。これから国家資格試験を受ける立場で就任を約束されたのは、正真正銘彼がはじめてだ。国中がわきたつほどの異例だと書かれてあり、ギルバートの才能を褒め称えるフィリップス卿の言葉の数々が、記事の大半をしめていた。

 神様なんかいないことを、エイダンは知っている。世の中が不公平なことも、強い者が常に得をすることもわかっている。でも、だからこそ、彼と自分を比べてしまう。比べて落ち込んでしまうのだ。

 ……僕はここで、なにをしているんだ?

 のろのろと新聞を戻したとき、

「カミングス君、どうしたのですか」

 クーパーが戻る。エイダンはぼんやりと返答した。

「……あっ、いえ。なんでもありません」

 伝えることがあったけれど、冷静になって落ち着いてからにしたほうがいいかもしれない。いまはギルバートの喜ばしいニュースで頭のなかがはちきれそうで、うまく説明できそうにないもの。

 車両内を丁寧に見まわって乗客の様子をうかがうよう、クーパーが指示してくる。その声が、まるでコーラスのように耳に届く。どう返事をしたか記憶にないまま、エイダンは車掌室をでた。

 ……まだ、間にあうかな。

 ギルバートに対抗するために、その力をつけるために。まだ、間にあうだろうか。

 ふいの迷いに襲われながら、エイダンは課された義務を淡々と続けた。そして五号車の連結部に立ったとき、一歩も前に進めなくなってしまった。

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