幻想鉄道奇譚 #18
あと少しで駅前の広場に着くというころ、こちらに向かってくるスミスの姿が視界に飛び込んだ。
びしょ濡れのエイダンを見たスミスは、とっさに自分の上着を脱いで傘代わりにし、そのなかに入れてくれる。突然の親切に、エイダンは戸惑った。
「あ、ありがとうございます……」
「僕だって、君の労力に敬意を表するくらいのことはするさ」
そうなのか。少しは認められたみたいで、ちょっと嬉しい。
「ありがとうございます」
エイミーはどこにいたのかとスミスに訊かれ、エイダンは簡潔に説明した。
「とにかく無事でなによりだ。ゲイルから聞いたけれど、君はこの子について知ってるんだろ?」
「ええ、まあ……」
眠っているエイミーは、どこにでもいる普通の子に見える。でも、普通っていったいなんだろう? それって、いったい誰が決めているんだ?
「……どうすることもできないのかな」
聞こえていないと思ったつぶやきに、予想外の返答があった。
「なにが?」
一瞬びっくりしてスミスを見てから、おずおずと疑問をぶつける。
「その……近代文明への恐怖が、Aを想定外の行動に駆りたててしまうというようなことを、新聞で読んだことがあります。だけど、その文明への恐怖っていうのが、僕にはいまいちわからないんです。僕にとっては便利なだけなので……」
「文明が便利になればなるほど、使われなくなっていく能力がある。使われない能力はやがて死に、二度と手に入れられない欠落になる。そのことに対する無意識の恐怖が、Aは人間よりも強いんだよ」
もちろん、とスミスはつけくわえた。もちろん、個人差はある。この時代の波に難なく乗れる者だっている。けれども、溺れてしまう者のほうが圧倒的に多いのだそうだ。
「新たな文明へのとまどいが、彼らの本能と理性のバランスを崩しているんだ」
「……だったらその、たとえばですが、そもそも蒸気機関車に乗ったりしてはいけないのでは?」
「機関車を避けて馬車にしたからって、この土地にいるかぎりは新時代の波から逃れられない。いずれは世界のどこにいようと、逃れられなくなるだろう。そういう時代に対しての潜在意識下の恐怖が、Aには強くでてしまう。機械や電気がまだ身近になくて珍しかったころは、そういったものともうまくつきあっていられたし、本能のコントロールだってうまくできていたんだ。でも、現代は違う。こればかりは彼らにもどうしようもない。特効薬のない流行り病のようなものなんだよ……たぶんね」
なるほど、わかりやすい。エイダンは感嘆の息をつく。
「詳しいんですね」
スミスは苦笑した。
「まあね」
Aが乗車する列車の車掌なのだ。エイダンは納得し、うなずいた。
* * *
駅舎のある広場では、グリーン兄弟とゾーイが雨宿りをして待っていてくれた。よくやったとねぎらってくれる三人のあとにつき、急いで列車に乗車する。エイダンはすっかり雨に濡れてしまっていたが、エイミーはなんとか無事だ。母親の部屋を訪ねたエイダンは、エイミーをベッドに横たわらせてから、叱らないようにと告げた。
「……とても賢い子です。自分がどういったところに向かっているのか、なんとなくですが予感はしているようです。それにお母様を悲しませていることも、じゅうぶんにわかっています」
力なく椅子に腰かけた母親は、両手でハンカチを握りしめながらエイミーを見つめた。エイダンは一礼して部屋をあとにし、着替えるために自分の部屋に向かう。制服を脱いでハンガーにかけ、タオルで身体を拭く。着替えのシャツはハンガーにかけていなかったので、しわしわだった。クーパーのいやみが脳裏をよぎったものの、しかたがないので腕を通す。帽子は濡れたもの一つきりだから、タオルの横にかけて干すことにした。小さな洗面台の鏡に顔を映し、くせ毛の黒髪に櫛を通して必死になでつける。まあこれでいいかとあきらめたころ、ごうっと蒸気のあがる音がした。
勤務、二日目がはじまる。列車が走りだし、エイダンは通路にでた。車内販売で勤務の幕を開けるべく、レストランカーに向かおうとしたときだ。
「エイダン」
うしろから声がかかり、びっくりして振り向く。車掌室の前に、スミスが立っていた。
「きてくれ」
はじめて名前を呼ばれた気がする。そのうえ、カミングスではなくエイダンと呼ばれたのだ。奇妙な高揚感に包まれつつ、車掌室に入る。クーパーの険しい視線を少しでも和らげるため、なにか言われるよりも先に思いきって声にした。
「このシャツの皺の件は申し訳ありません。僕の落ち度です。本日以降気をつけます。帽子については雨に濡れましてかぶれませんので……」
クーパーはわかっているとでも言うかのように、手のひらをあげてエイダンの言葉を制した。押し黙ると、彼が重々しく口を開く。
「五号車の乗客に、注意してもらいたいのです。部屋番号はS3」
エイダンは息をのんだ。クーパーが続ける。
「昨日レストランカーにきた、片眼鏡の乗客です」
エイダンらがエイミーの捜索にでかけてかなり経ったころ、その部屋からでてきた人物にでくわしたのだとクーパーは言う。
「昨日は私の苦手な香水のせいで気づけませんでしたが、彼はおそらくB・Bです」
スミスは表情をこわばらせた。
「……本当か、ゲイル」
「インクと鉄の匂いを感じました。間違いないでしょう。ちなみにですが」
言葉をきって、エイダンを見る。
「乗車初日、君が鍵を渡した乗客だということが部屋番号でわかりました。水を持っていったとき、かすかにでも匂いを感じませんでしたか? または、なにか変わったことは?」
スミスもエイダンを見すえてきた。どうしよう、なにもかも話してしまおうか。そんな思いとは裏腹に、言葉は勝手に口から飛びだす。
「すみません。とくになにも……」
気まずくてうつむくと、スミスが呆れたように嘆息する。。
「ゲイルもわからなかったんだから、君には無理だよな」
そうじゃない。一瞬だったしうっすらとだけれど、ちゃんと感じた。でも?
「……どうしてインクと鉄の匂いとB・Bが、イコールなんですか」
「インクも鉄も血の匂いに似ている。取り締まった者たちを矯正と言う名の拷問にかけているうちに、全身に染みつくのですよ」
「どんなにシャワーを浴びても、そのうちにとれなくなる」
「ご……拷問だなんて、まさか、そんな」
クーパーもスミスも真剣な表情で沈黙した。エイダンには信じがたいが、事実らしい。ギャレットに脅しめいたことを言われているものの、やはりこうなったらすべてを打ち明けてしまったほうがいいのではないか。口を開きかけた矢先、クーパーが言った。
「貨物車両のお客様は、かなり落ち着かれたご様子です。ですが、五号車のB・Bに見つからないよう、こまめに見まわる必要があります。君にもお願いしてもいいですかな、カミングス君」
えっ、とエイダンは目を丸くした。ミスタ・カミングスからカミングス君に格上げされた。もしかしてこれは、車掌チームにめでたく仲間入りできたということだろうか?
「は、はい」
エイダンは言葉をのみこんだ。ギャレットの誘いは断るのだから、わざわざおかしな波風をたてることはない。だって、自分とギャレットとの間には、なにもないも同然なのだから。
「わかりました」
エイダンがそう答えた直後、スミスが言った。
「五号車のB・Bの目的はなんだ?」
「おそらくですが、視察でしょうな。ぐるりと車両内を見まわしたところ、B・Bと思わしき人物は彼だけです。数人ならばまだしも、一人きりでなにかできるとも思えませんので、この列車の乗客について調べるために乗車したと考えるのが、妥当でしょう。とはいえ、甘く見れば足元をすくわれます」
そのとおりだ。なにしろ彼はB・Bなうえ、エーテルを武器にできる国家資格取得者なのだ。
「……理由をつけて、どこかでおろしたら?」
スミスが言う。クーパーは首をふった。
「なにも悪いことをしていないのに、おろすことはできません。それこそ怪しまれ、後日大勢のB・Bが押し寄せてくることになるでしょうな」
もっともだった。終着駅まで様子を見守り、車両内に細心の注意を払うことが、いまは最善の方法だとクーパーは言葉を続けた。うなずいたスミスの眼差しは、しかしどこか不安げだった。そんなスミスとクーパーを交互に見ながら、エイダンは心に引っかかっている疑問を投げかけた。
「それで……貨物車両のお客様は、このあとどうなるのですか」
「アースニアの港から、船でミンタカ島に向かうと言っていたから、僕らの役目は彼を終着駅まで無事に運ぶことだけだ」
スミスが答える。エイミーの母親が目指している場所と同じだ。
「ミンタカ島は彼らにとって、どういう場所なんですか」
「避難場所です。新世界への移行がゆるやかで、新たな文明に慣れていくのにちょうどよいとされています。ですから、この列車のほぼすべての乗客のみなさまが、ミンタカ島へ渡るためにさいはての終着駅を目指しているのです」
知らなかった。もっとも、知らなくて当然なのだが。
「パトリックさんもゾーイさんも、グリーン兄弟も、そのことを知っているんですか?」
答えはあきらかなのに、反射的に訊ねてしまった。クーパーが苦く笑う。
「知らなくては乗客の皆様を守れませんからな」
そのとき、自分に課せられた仕事がなんなのか、エイダンはやっとはっきり自覚した。乗客であるAを守ることが、〈エンチャンテッド・スターズ号〉の乗務員たちの――自分の仕事なのだ。
「教えてくれて、ありがとうございます」
彼らの側につけば、ギャレットは敵になる。いや、B・Bなる組織を有する政府をも、敵にまわすことになるのかもしれない。複雑な思いをなんとかのみこんでいると、クーパーが念を押してきた。
「もしもこの列車をおりることがあったとしても、他言はしないようお願いしますよ」
ただでさえ含みのある視線に、鋭さがくわわる。はい、とエイダンがうなずくと、クーパーはやや剣を弱めた。
スミスが先に車掌室をでていく。エイダンも車内販売に向かおうとしたとき、クーパーがクローゼットから帽子をとりだした。
「私の予備の帽子です。君のが乾くまで貸してあげましょう」
〈K・S・R〉のロゴがきちんと刺繍されてあるものだ。
「い、いいんですか?」
「いいも悪いもありません。帽子をかぶっていない車掌など、見たくないですからな」
「ありがとうございます」
エイダンがその場でかぶると、クーパーはやや顔をしかめ、帽子からはみだした髪をきちんと耳にかけるよう助言してきた。エイダンがそのとおりにすると、クーパーは満足そうにうなずいた。
「よろしい」
本物の制服の帽子をかぶり、エイダンはレストランカーに向かう。通路を歩きながら、敵だとか味方だとかそういったことではなく、ただ、素直に思った。
誰かを傷つけるのだけはいやだ。そんなことをするくらいなら、物乞いにでもなったほうがずっとましじゃないか。
そう――嬉しくないことは、すべきじゃない。たとえ、自分のほしかったものをすべて捨てることになるとしても。
車窓に映る自分に、エイダンはそう誓った。帽子のつばを持ってかぶりなおし、列車の律動に身をゆだねながら、通路を歩いた。
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