幻想鉄道奇譚 #2
駅の構内に吸い込まれていく父親の背中を見送ったエイダンは、寒々しい屋根裏部屋に帰る気になれなくて、行くあてもないままとぼとぼと歩き続けた。
西の空に日が落ちていく。満月に近い月が、淡い輪郭で浮かんでいた。こんな日は殺人事件が増える。夜の訪れに身構える時間帯、荷物を背負った数人の外灯夫が、ガス灯の歯車を巻きあげて炎を灯しはじめた。その様子をぼんやりと眺めながら通りを渡ろうとしたとき、蒸気をあげて走る乗りあい自動車にひかれそうになってうしろによろめく。そのせいで楽しげに談笑する男性らにぶつかり、エイダンはとっさに謝った。彼らが失笑する。
「君、酔っ払うには少々早い時間ではないかな」
「……すみません」
恥ずかしさを隠すためにうつむき、エイダンはすぐに背中を向けた。彼らの笑い声から遠ざかりたくて表通りを足早に歩いていると、レストランを囲んだ人だかりが視界の先に見えてきた。身なりのいい若い男性が、二人の紳士に両腕をつかまれており、どこかへ連れていかれるところらしい。最近やたらと目にする光景だ。なんとはなしに立ち止まったエイダンは、人ごみに近づいた。すると、誰かがささやく。
「……B・Bだ」
帽子もコートもシャツすらも黒い公安調査局の調査員を、人々はビッグ・ブラックと揶揄しており、いつしか頭文字で呼ぶようになった。もちろん、正式名称ではない。
「じゃあ、あの男はAか」
公安調査局調査員に対するAとは、長い間この国で共存してきた異なる能力の持ち主たち――人狼族や吸血族を総称したエイリアンをしめす頭文字だ。
男性の恋人らしき女性が、二人のB・Bにすがりついた。
「待って、彼は違うの! 〝半分〟は人間なのよ! 〝半分〟は違うんじゃなかった? そうでしょ!?」
女性に向きなおったB・Bの一人が、にこやかに告げた。
「ええ、もちろんです。しかし数日前、とある方から彼のお知らせをいただきましてね。過去において、彼はその方に手をあげたことがあるとのこと」
Aと思わしき男性は、憤慨をあらわにする。
「いったい誰からの通報なんだ? 私は誰かに手をあげたことなんて一度もないぞ! 万が一たとえあったとしても、それが君たちにどんな関係があるっていうんだ。たんなる喧嘩かもしれないじゃないか。君らにだって覚えのあることだろう!」
男性が訴える。もう一人のB・Bがおだやかに答えた。
「ええ、おっしゃるとおりです。ただ念のために、日常生活においてのことなどをおうかがいしたいだけなのです。ですので、ご心配にはおよびません。すぐに終わります」
女性が目をつりあげる。
「きっとあなたの昔の恋人……オリビアだわ! わたしたちの婚約を妬んで、あの女が嘘をついて通報したのよ! なんてこと……絶対に許すもんですか!!」
ご愁傷様と、誰かがささやく。そのとたん、人だかりに冷ややかな笑みが広がった。その場にくずおれた女性を、いましも連れていかれそうな男性が慰める。私は半分人間だからすぐに終わるさと言うと、女性はうなずきながらすすり泣いた。男性とB・Bを乗せた馬車が走り去る。馬車を見るとほっとすると言った父親の言葉を思い出しながら、エイダンは静かにそこから離れた。
人狼による数年前の連続切り裂き事件以来、生粋の人間じゃない者たち――Aにとっては苦難の時代が到来していた。人間とうまく共存していたはずのAの数は、新聞によれば内務大臣があらたになって減少傾向にあり、それとともに治安が向上しているとのことらしい。
B・Bに捕まったら二度と施設からでられないとか、他国の森の奥に隔離されるなどと噂されているが、真実を知る者はいない。事実がどうであれ、いまのエイダンにとっては他人事にすぎなかった。同情を覚えはしても、変わっていく時代の波には乗るしかない。抗えばのみこまれ、溺れることになるからだ。なにより、身近にいないAのことよりも、自分の身の上のほうがずっと悩ましい。そう、他人事にうつつを抜かす余裕なんて、微塵もないのだった。
通りを歩き続け、やがておなじみの場所に着く。重厚な石造りのビルの一階、目先のウィンドウを飾る流麗なロゴマークに、エイダンは毎度のことながら息をのんだ。
エーテル修復の技がすみずみに活かされている、ロゴマーク。ふわりとガラスにあらわれては霧のように消え、ふたたび花びらのようにはらはらとガラスを這うみたいにして集まり、優美な輪郭をかたどっていく。美しくて静謐、このうえなく上品なロゴマークに吐息がもれる。
フィリップス・アンド・エーテルプロダクツ。
王室御用達のエーテル・インテリアを扱っている商会名であり、それを率いているフィリップス卿こそ、デビューしてなお三十年以上、エーテル修復師の頂点に君臨している人物だった。
煙突清掃員を父親とする庶民の一人にすぎなかったが、美しいエーテルをあらわす少年がいると評判を呼び、幾人かの有力なうしろだてを得て大学を卒業。挫折知らずの天才は、難関の国家資格試験を軽々と通り抜け、エーテル芸術の頂点を意味するホワイト・グローブと男爵の爵位を女王陛下からたまわり、現在にいたっている。
エーテル修復師を目指す誰もが憧れ、目標とする人物。エイダンだって例外ではなかった。
あわよくばこの商会で働けるようになりたかったし、そう願う者の多さも知っていた。そしてまた、その夢を叶えられるのはフィリップス卿に認められた者だけで、数年に一人いるかいないかという現実も、もちろんわかっていた。
立派な髭をたくわえて鋭い目をした高齢の男性の顔が、脳裏をよぎっていく。卒業試験場で審査員として座っていた彼の表情を、エイダンはよく覚えていた。世にもまずい料理を口にしたときのような、あの苦い顔。隣の教授に耳打ちし、頭を軽く左右に振ってから目を閉じたあの様子。
彼はダメだ。見ていられない。そんなふうに言っている気がしたし、実際そうだったのだろうといまさら思う。
ウィンドウに飾られてある椅子は、現代の上流文化を謳歌するかのごとき美しさだった。蔦を連想させる脚、背もたれとシートには、上品な色合いの天鵞絨がふっくらと張られてある。それは真っ白い蕾や小花の間に、小鳥がいる柄の生地だった。その蕾が花となって咲きほこり、舞い踊るように小鳥たちが可憐に飛びまわっていた。デザインして修復したエーテルを生地に閉じ込め、定着させるというこの難技を、フィリップス卿は軽々とやってのけてしまう。これこそがフィリップス卿の真骨頂であり、彼を国宝級のエーテル修復師としているゆえんでもあった。
幻想世界をエーテルで創造し、生地に閉じ込める。
同じ生地は存在しないが、一度手に入れたら半永久的に動き続ける。カーテン、長椅子、カバー類。生地だけでもエイダンの学費以上の値段なうえ、それらの張られた家具類ともなれば天文学的な数字がつく。それでもなお富裕層たちは、のどから手をのばすほどに欲しているのだった。
エイダンはしばらくそこに立ちつくし、上着のポケットに両手をつっこんだ。ぼろぼろの自分のグローブが、まだ入っている。
……馬鹿だな。もう必要ないのに。
そう頭ではわかっていても、手放すきっかけがなかなかつかめない。大学中退では国家資格試験を受けられないのだから、エーテル修復師という肩書きの職業に就ける確率は、完全にゼロなのだ。
空っぽだ。僕にはもう、なんにもないんだ。
夢や目標を追いかけろと、誰もが口にする。そうすることが人間にとって、もっとも幸福なことだとでも言うかのように。でも、それを現実にできるのはほんの一握りの人間だけだ。その仲間になれないと悟ってしまった者は、どうやってあきらめたらいいのだろう?
思い返せば、いままでの人生であきらめかたを教えてくれる人に出会ったことは、一度もなかった。
「……自分で見つけるしかないってことだ」
なにげなくつぶやいた瞬間、ふとサーカスのテントを眺めたくなった。間違いなく終演の時間だったけれど、もしもいま部屋に帰ったらぐずぐずと朝まで泣いてしまうだろう。想像しただけでうんざりだ。
* * *
ガス灯に照らされた中央公園の手前に、赤と黄色と水色の巨大な円錐があり、案の定静まりかえっていた。テントの出入り口にポスターが飾られてあり、『幻灯ショーとサーカスの魔法』という楽しげなタイトルがおどっている。
「なあ、あんた。今日はもう終わったから、明日おいで」
うしろから声をかけられて、エイダンは振り返った。道化師の格好をした男が、顔のおしろいを布で拭きとりながら煙草の煙をくゆらせている。エイダンはポスターを指した。
「この幻灯ショーってどんなものか、聞いてもいいですか?」
「……ほかのサーカスでもやってるようなことだ。幻灯の景色をスクリーンに流しながら、俺が演技して笑わせる目玉のショーさ」
定番は田舎から都会にでてきた道化師が、猿にトランクを盗まれるというもので、トランクを取り返すために猿を追いかける悲喜こもごもの間、路地裏や公園、ときに川べりなどの景色を幻灯で映し、演じている道化師が実際に外を走っているように見せる。
道化師はずっこけて転げまわったり、熊がペダルを漕ぐ自転車のうしろに乗り込んだりしながら、猿をつかまえるための投げ縄や吹き矢、空き缶を手品でだしてみせ、観客を楽しませるのだ。
「……すごいですね」
「まあ、訓練のおかげだな。割にあわねえし、儲からねえ仕事だけど」
「そうなんですか?」
肩をすくめて見せた男は、苦笑した。
「ああ。けど、みんなを笑わせて飯が食えりゃ、それでいいさ」
道化師の衣装をまさぐった男は、「明日おいで」とエイダンにサーカスのチラシを差し出した。
「明日こいつを入り口にいる奴に渡したら、キャンディがもらえるはずだ」
「えっ?」
「こんな夜に一人ぼっちでサーカスの看板を見てるなんてな、さみしいやつだけだ。このあとにライツ川から飛びおりでもされたら、たまったもんじゃねえ。明日の希望をあんたにやるよ」
一人ぼっちで徘徊していたエイダンに、同情してくれたらしい。落ち込んでいたから、思いがけない彼の小さな親切が身にしみた。
「ありがとうございます。嬉しいな」
おずおずとエイダンがそれを受け取ると、苦く笑った男はおしろいを拭いながらテントの奥に姿を消した。チラシを四つ折りにしてポケットに入れながら、道化師もいいなとちょっと思ってしまった。「みんなを笑わせて飯が食えりゃ、それでいいさ」という男の言葉が、やけに胸に響いたせいかもしれない。
いいなと思ってそうなれるほど、道化師だって簡単な仕事じゃないけれど。
そう、それだって、才能がいる。なんにでも才能というものがついてまわるんだ。でも、それでも、なにかしたい。いままでの人生を活かせるようなことが、なにかできたらいいんだけれど。
「……仕事を見つけて、働かないと」
テントを離れ、石畳の通りを歩く。ひやりとした初夏の夜風が、エイダンのくせっ毛まじりな黒髪をさらにくしゃくしゃにしていく。うっとうしい前髪をそのままにさせながら歩き続け、やがてライツ川にかかる橋を渡った。
立ち去っていく父親の背中が脳裏に浮かび、母親や姉が裁縫の内職をしている姿を思い出す。できの悪い長男に一財産をつぎ込んでしまった家族は、きっとあの小さな村で笑いものになっているだろう。
悔しさのあまり、エイダンはポケットのグローブを強く握った。
同級生らが女の子にうつつをぬかし、寮をでて遊びほうけている間も、エイダンは部屋に残って勉強し続けた。ときには演習室で実際にエーテル修復をおこなったりもしていたけれど、成績はいつも最下位だった。そんなエイダンと違って常にトップを走っていたのは、講義中に眠っていることの多かったギルバートだった。
同室だった彼と自分を比べるたびに、身の丈にあわない夢を追っているんじゃないかと思った。しょっちゅう抱いたそんな疑問を、エイダンは無視し続けた。だって、いまさら引き返せなかったから。そうしてずるずると居座った結果が、このざまだ。
でも、それでも。これまでの日々は無駄じゃなかったと思いたい。だって、そうじゃなくちゃ、あまりにも不公平じゃないか。
欄干で立ち止まったエイダンは、すりきれた革のグローブを取り出して指を滑り込ませた。親指から小指まで、左右十本の指先に、小さなクリスタルがはめ込まれている。それは十五歳の誕生日に、父親が買ってくれたものだった。
目を閉じたエイダンは、深い深呼吸を繰り返して集中する。そうしてまぶたを開けてから、両手の指先を軽く空中にそわせる。すると、暗闇にゆるやかな輝きが流れていく。
世界を満たす媒質のエーテルは、目に見えない微粒子の集まりだ。それらは、修復――かたどられて物質化されるのを待ちながら、誰の目に映ることもなく空気中に漂っている。
エーテル修復師とは、集めた微粒子を物質化させ、定着させる芸術家のことだ。キャンバスに定着させれば、それは動く絵画になる。現実には存在しないドラゴンをあらわせば、インテリアとして売買される動く装飾品になる。もちろん、それらを手がけて商品にできるのは、国家資格者にかぎられている。
指先を動かしたエイダンは、やがてオーケストラの指揮者のような独特の動きで、両手にエーテルを集めていく。
風が流れる。集中し、静寂に身をゆだねる。
物質化させるものをイメージし、独特の言葉を唱えながら微粒子をゆるやかにかきよせる。やがて微粒子は細い糸――エーテル紐となって、エイダンの両指にからみついていく。淡く輝く細い紐を両手のなかで転がしながら、七色の翅をはためかせる蝶を物質化させた。
ここまではいい。問題はここからだ。
定着化させるには、特別な周波数の声を発しなくてはならない。人の耳には届かない音程の声と言葉を組み合わせることによって、エーテルの物質化を定着させるのだ。微粒子が反応するそれらは多岐にわたり、基本と応用を覚えるだけで丸三年を費やす。大学でしか学べないこれを、人々は魔術にたとえて〝呪文〟と呼んだ。しかし、大学で覚えられる〝呪文〟の定着期限は五年。永久に定着できる〝呪文〟は、またもや国家資格取得者だけに与えられる特権なのだった。
エイダンの手のひらのなかで、蝶が七色の翅を広げて飛びまわる。
いいぞ。ほら。落ち着いていたらちゃんとできるじゃないか。そう安堵したのもつかの間、エイダンの両手から離れた蝶は、やがて闇夜に吸い込まれるように、音もなく儚く消えてしまった。
〝呪文〟はすっかり覚えきっている。声の周波数も間違っていはいないはず。それなのにどうしてか、エイダンのエーテル修復はやっぱり定着しなかった。直後、父親が受け取ったという教授からの手紙の文言が、脳裏に蘇った。
――誰よりも真面目に学んでいた。
それは、覚えるのに時間がかかったからだ。
――誰よりも真面目に学んでいた。
それは、思いどおりの周波数の声を発することができなかったからだ。
僕は無能だ! やけになってグローブを脱いだエイダンは、ふたたびそれを握りしめると、川に向かって大きくふりかぶる。投げ込んで手放すつもりだったのに、これだって高かったはずだと思いとどまり、結局ジャケットのポケットに押し込んだ。
「……父さんが無理して買ってくれたんだもの。捨てちゃだめだ」
つぶやきが涙声になる。小さな村では天才だった。でも、大きな都会では凡人にすぎなかった。たったそれだけのことを知るために、さらに四年分の学費と歳月を費やしてしまったなんて。
いや、きっとそれだって無駄じゃなかったはずだと、強がってみる。少なくとも、そのことがわかったんだ。わかってよかったじゃないかと、エイダンは自分を励ました。けれどもそれに反して、ふがいない自分が情けなくなってきて、やっぱり涙が浮かんでくる。いまにも泣いてしまいそうになった矢先、ポケットに入っていた四つ折りのチラシを思い出し、あらためて広げてみた。
サーカスなんて久しぶりだ。明日気晴らしに見てみようかな。キャンディももらえるんだし、ちょっとは元気になれるかもしれない。仕事はそれから探せばいい。
チラシをひっくり返すと、サーカスの興行に協賛している印刷所や鉄工所、女性用ハンドクリームの広告がのっていた。一番下の細長い広告は、一五○○キロも離れた北のさいはての港町まで向かう長距離鉄道〈K・S・R〉――カレイドスコープ・レイルウェイ社のもので、手描きの蒸気機関車を囲むように楽しげなカリグラフィがおどっている。
――魅惑の鉄道が、貴方様のご乗車をお待ちしております。
乗ったことのない鉄道だ。エイダンはチラシをポケットに戻した。乗務員、随時募集中。その控えめな大きさの文言に気づくことなく、上着をかき寄せながら橋を渡った。
求人がのっている新聞を手に入れなくてはと、心に決めながら。
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