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子育ての日々は、今までの自分と少しずつ別れていくプロセス―産後1年半雑感

産後1年半が経った。
多くの先輩から言われたとおり、はじめの1カ月は永遠に思えるほど長くて、半年までもけっこう長くて、なのに1歳になる前に保育園に預けてからは、一瞬に過ぎ去ってしまった。赤ちゃんらしいロンパース姿も、動けることの喜びを全身から放出していたハイハイの姿も、おいしいものを食べた時に顔をブンブンと振る仕草も、なにも面白くないスタバのカップをいつまでも噛みしめて喜んでいた姿も、もう見ることができないなんて、考えただけで涙が出てきてしまう。そのあまりのスピードの速さに圧倒され、この貴重な一瞬一瞬が、私の中で何もなかったかのように過ぎ去ってしまうのではないかと、いま焦っている。

子どもの姿のひとつひとつを忘れたくない。目まぐるしい日々の中で、今できることは、たくさんの写真と動画と、短い日記を残すことくらい。本当はもっと、細かく丁寧に、かたちにして残せたらよいのだけれど、限りある時間の中で、今できることはこれくらいしかない。きっと近い将来、いま撮っている膨大な写真が未来の私を喜ばせてくれるだろうし、日本のどこかに住む名前も知らない人たちが克明に残してくれているinstagramやブログの記事の中に、忘れてしまっていた子どもの姿を探すこともできるだろう。

一方で、自分自身についてはどうだろうか。
子どもを産んでからというもの、一日の中で自分の「考えていること」が目まぐるしく変わっていく感覚を味わった。365日睡眠不足の日々の中で、朝の5時に静かなリビングで音を立てずに考えていることと、保育園に子どもを送り後ろ髪をひかれながら考えていることと、スーパーでの子どものぐずりに疲れ果てた帰り道に考えていることと、夜中に授乳しながら考えていることと…これらがまるでバラバラなのだ。よく、産後のメンタルの不安定さはジェットコースターに例えられるが、感覚的にはもっと散らばっていて、一本の線路につながってさえもいない。

私は研究に関わる仕事をしているので、「考えること」は仕事において重要な要素でもある。でも研究における「考えること」は、ある程度一貫した結論へと収束していく方向性を持っている。もちろん、常に新しい考えに触れ、それを取り入れていくことが必須ではあるが、研究者個人としての哲学はそんなにコロコロと変わらない。なので、自分の考えがこんなにも一貫性なく変わっていくことは、とても気持ちが悪いことだった。

しかも今振り返ると、そのひとつひとつの一生懸命に「考えていたこと」が、何だったのか思い出せない。断片的にすら思い出せない。でも間違いなく、これまでの人生の中で一番と言えるほど、毎日色々なことを考えていた。その時々の自分の感情に向き合って、気持ちを納得させるための考えを模索したり、前向きに進むための目標を立てたり、自分の生き方についての宣言をしたりしていた気がする。そうやって心のエネルギーを使って考えることで、自分を奮い立たせながら頑張って毎日を進んでいた。

いまこの1年半を振り返ると、私はそうして洗濯機のように「考えること」を通して、「これまで築いてきた自分という人間を、自分自身に気づかれないほどに少しずつ、少しずつ、変えていく作業」をしていたのだと思う。

私は就職も結婚も人より遅めで、大人になるまで「自分のやりたいことをできるだけ諦めない」生き方をしてきた。そうした生き方は、現代においてはさほど珍しくないと思う。仕事だけでなく、趣味についてもそうで、周りが大人になるにつれて自分のやりたいことを少しずつ手放していくのを横目に見ながら、できる限りしがみついてきた。
だからこそ妊娠がわかったとき、「これまで築いてきた自分」を失ってしまうことが悲しかったし、産んでからも、必死にこれまでの自分から「変わらないこと」を目指したかった。noteを始めたのもそのためだった。

でも産後の思うようにいかない毎日の中で、少しずつその握力はなくなっていき、産後太りを止められずに太っていくのと連動して、「変わらない」ことを目指す気持ちも薄れていった。きっと多くの先人たちが、この道を通ったのだろうなと思いながら、目線を他の方向に逸らしていった。

今の社会の中で、女性が子どもを産み育てることや、仕事と両立していくことが「いかに大変か」ということについては、たくさんの発信が行われるようになった。一方で、「子どもを持つことで、今までの自分を失うことになる」ということについての「悲しみ」については、そこまで言語化されにくいように思う。それはきっと、そうした悲しみが、自分本位で未熟なことのように思われるからだ。もう親なのに。母親なのに。

誤解のないように言うと、子どもと出会えたことは私にとって100%偽りなく幸せなことで、自分という人間を豊かにしてくれた。すでに子どもは私の人生の一部になっているし、もちろん時間も体力も精神力も吸い取られはするが、それも含めて「YES」である。本当にかわいい。

でもその事実とは別に、少しずつ、少しずつ、これまでの自分と別れていくことの「悲しみ」が存在することも、忘れずにいたいなと思う。

この長くて短い不思議な1年半は、まさに嵐のように、過ぎ去ってしまった。ほとんど日記も残せなかった。思い出せない、たくさんの「考えていたこと」を想うと、もういなくなってしまった過去の自分と、その自分と一生懸命に別れようとした去年の自分に対して、少しかわいそうなことをしたような気持ちになる。もう少し、その葛藤の痕跡を残せたらよかったとも思うし、残さなくてよかったのかもしれないとも思う。

よく頑張った

2年前の私へ。
確実に2年の月日が流れました。
人間的に成長したとか、していないとかは、正直わかりません。
成長したところもあれば、退化したところもあると思います。

でも確実に2年の月日が流れました。
実は、そう感じられることはすごいことなのではないかと思います。
なぜなら以前は私は、「月日が流れた」という感覚を持つことがあまりなかったからです。
毎週のルーティンがあり、毎年のルーティンがあり、
ずっと、維持すること、変わらないこと、に価値を置いていました。

それがこの2年間は、時が流れました。
なかなか、新鮮です。ぜひ、楽しみにしていてください。

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