ダンスを伝えられなくなった理由
■ダンスの正体。
ダンスはある日突然僕の目の前に現れた。
プロフィールなどに書いてあるように、確かに札幌でミュージカル『キャッツ』を観た小学校3年生の時から、僕は人前で歌い踊る事を夢見た。
しかしその日まではダンスが存在しなかったのかと聞かれたら、それはいくらでも自分の周りにあった。
シブがき隊の『寿司食いねぇ!』が大好きだったのはおそらく6歳の頃。
幼稚園に行きたくない!と自分で決め、母親もそれを受け入てくれたので、
僕はとにかく家で好きな曲を聴いて歌い踊り、練習の成果を母や祖母や祖父に見せては褒めてもらって機嫌よく寝た。
そしてあくる日、またまた歌い踊る。
今考えるとよく小学校へ行ったものだ。
そんな日々に僕が行っていた行為は間違いなくダンスだった。
ミュージカルに出会い、猫たちが飛び跳ねるあれはダンスなのだと知った日から、僕の周りには過去も含めてダンスが溢れて行った。
それからは何をやっても自分はダンスをしている気でいた。
家で歩いていても、忘れ物に気が付いて方向転換して自分の部屋に戻る時も、全てがダンスで踊りでショーだった。
どこから来た自信なのか、とにかく自分はダンスが上手いのだと思い込んで過ごす事が出来ていたし、思い込んでいたという事はダンスが上手かったのだと思う。
その後僕は高校入学と同時に札幌のダンススタジオでダンスを習い始め、出来ない事や、落ち込む事や、ひどく人に憧れる事はあったが、総じて自分はダンスが上手いと思い込むことに成功して来た。
そして43歳の現在も・・・
今よりもはるかにダンスの見本のようなものを映像で観る事は少なかったし、ダンススタジオの先生や先輩たちはとにかくカッコよかったが、それ以上に熱があったし、その熱に浮かされて僕も日々を熱く過ごせていたように思う。
そしてそれがダンスなんです。
僕にとっては。
どんなレッスンを受けても、どんな舞台を観ても僕のダンスはあの日々の『熱』が全てであり、他の全ての物は他人のダンスでしかない。
つまりそれぞれのダンスは、それぞれが出会い、それぞれが大切に育てるものである。
という根本的な思想が僕の中には最初からあったのでしょう。
でもダンスを教えた日々
そんな僕がダンスを教える。という不思議な職業に就いたのは18歳の夏。
先ほど述べたように、ダンスとは形あるものではなく【熱】である事から、
その熱を教える事は、そして18歳の少年がそもそも【教える】という作業を行う事はいささか無理があるのは当然である。
その上多くの人にダンスを伝えると言う事は、多くの人にジャッジされる事になる。
あの先生の振付はスローが素敵で、熊谷先生の振付は激しいのが良いとか、
熊谷先生のストレッチは勉強にならないとか、あの先生のストレッチを取り入れたほうがいいのではないか?とアドバイスを下さる方までいる。
形ないはずのモノを人々が自分の理想や、好みによって形成していく流れにおそらく僕はまんまと飲み込まれていったように思う。
僕の中にしか答えのないはずのモノを、多くの人の中で答えだと認識してもらう作業は困難を極め、生徒の数や、レッスンの内容など、様々な尺度で自分を図り苦しむ日々が始まってしまったのだ。そしてこのような日々を送ったのはおそらく僕だけではないだろうし、先生という立場でなくとも自分のダンス愛だけではどうにもならないような嫉妬や、絶望を体験するダンス人口は多いはずだ。
もちろん今現在も。
40代の決断
その後は場所を東京に移し、常に自分の中にある答えと周りの人々が創り上げる答えとの間でもがく日々は続いていた。
調子が良い時。つまり周りの多くの人が熊谷さんのダンスの答えが素晴らしいと言ってくれる時は、あの日々の思い込みも自信も蘇る事が出来るが、
他の人の答えが羨ましく思えたり、多くの人が僕以外の人間の答えを求めているように感じる時は最悪だ。
子供の頃は世間知らずだったから幸せだったのか、あの日もっと練習していたら良かったのか、いや沢山練習したはずだ・・・
しまいには、
「誰も僕の事をわかってくれない!」
「みんなセンスねぇーんだよ!」
とまで思うようになると重症です。
センスもなにも、これは僕のダンスであって熱であって。だから誰のものとも比べてはいけない、そして自分で大切に育てるべきなんですよね。
40代を迎えじわじわとその事を冷静に分析できるようになった時、ダンススタジオのクラスを受けて、周りのように身体を動かせなくて落ち込む生徒や、容姿や年齢の違いを羨む姿を見て、ふっとあの人たちを救いたくなったんです。
しかし鏡の前で先生という立場でダンスを伝える中で、僕のダンスが全てだはないのだと語っている時間はない。
そしてどんどん僕の答えを押し付けるという行動に錯覚をされる時間が流れて行く。
正直に言うと、あの日の僕を救ってあげたいのだと思う。
君の答えは君しか大切に出来ない。どうぞ傷つかずに自分のダンスを守るのだ。そういって抱きしめてあげたい。
と言う事で僕は42歳の冬。ダンスの先生から離れた。
ダンスへの恩返し
生活の全てがダンスになってからの僕の人生は、本当に彩のあるものであり。それ以前の日々も全部を連れて素敵なものにしてくれている。
そんな魔法のようなダンスに人が出会う手助けが出来るなら、僕は喜んで手を貸したい。
その形を模索する日々が今始まったのでしょう。
全てよし。それもダンス。これもダンス。
しかしその自分のダンスを愛する体力は個人差があり、むりやり鞭をうって走らせることはしたくないし、それはきっと体力でも愛でもない「他人の目を気にする国民の自己肯定感ごっこ」にしかずぎない。
本当の自己肯定には体力と体力を育てる環境が大切であり、僕には母がいた、祖父と、祖母がいた、そっと見守る父もいた。
それはとても恵まれていた事であり、誰もが手にすることが出来るものではない、なんとかあの日々の柔らかさを沢山の角度からアプローチしていく必要がある。
慌てずにゆっくりと、これを僕のこれからの人生の課題にしたい。
そして自分の踊りもより大切にしてくでしょう。
最後に
例えばこの先また僕がオーディションなどを開催して、人の踊りを選ぶときが来るとしたら。
君はどれも正解で、どれも素晴らしいといったじゃないか!
という人もいるかもしれない。
僕のダンスは僕が大切にします。
僕の中でのいいダンス。素敵なダンス。今欲しい愛。
これは変容して渦になっていくようなものなので、
そこはとことん自分勝手にいる場所なので悪しからず。
ダンス劇作家
熊谷拓明