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月刊読み聞かせ熊谷「やっぱり夏が嫌い」#14

■朗読ラジオ劇脚本無料公開


「やっぱり夏が嫌い」作/熊谷拓明


マスクの隙間から溢れる息が眼鏡を曇らせる事へのストレスにもすっかりなれてしまった7月の今日。

トドマリタケシは電車に揺られ優先席の窓越しに夕陽にそまる多摩川を眺め、ドアに背中を頼らせ足の疲労を和らげながら立っていた。

多摩川を眺めながらのはずが、実はさっきから目の前で繰り広げられている、50半ばに差し掛かっているであろう二人の男女の深い言い争いに耳を傾ける事に集中を持っていかれているのだ。

女「ちょっと!寄らないでって!もぅ、イライラする!」
男「なぁにを今更イライラするんだってよ。うはっはっは。」
女「きもちわる!その笑い方。だから離れてって、他の女と遊んでなさいよ!」
男「だったら、ほらぁ。金くれって。」
女「ちよっとあんた、良くそんな事恥ずかしくなく言えたもんよね!」
男「そんな声出さなくても良いだろうよ」
女「あー、もう聞こえない、ほんとにいやだもーやだ好きにして!」
男「だから、好きにするから金くれって言ってるんだろうが」
女「これで最後だからね、ほら!」

トドマリタケシの目はその女の黒いくしゃくしゃのハンドバッグから取り出された通帳に釘付けである。
この通帳でどれだけこの男が好きに暮らすんだろうか…
何を食べるんだろうか…
何回タクシーを使うんだろうか…

男「なんでこんな所で通帳なんかだすんだよ!現金をくれってよ!
これじゃ歌舞伎町には行けないだろ!」

女は耳を塞いで怒りで震えている。


男「あーーあ。金もないからゆっくり帰ろ。歌舞伎町でねぇちゃんと遊べもしないわ。500円しかねんだから、ゆっくり帰らないとな。金もくんねーし。」

女「ほんとにもー連絡もしてこないでね!これで最後なんだから!」
男「おうおう。連絡なんかぁーしないよ。気にしなくていいよ、好きに生きるんだから俺は、ガスが払えんくても、水が止まっても、一人ならちょうどいいや、すきように生きてやるよ!」
男の言葉を耳に入れながらも、トドマリタケシは震える手で耳を塞ぎ続ける女の顔を見ている。もう次の駅で降りなくては行けないが、この二人が気になり過ぎる。
本気でこの後の打合せに遅刻しようかと考えるが、なんの言い訳も浮かばない。
本気でそんな事を考えている事じたいが、この二人と自分の3人がなんともねっとりとした平和に包まれた時代に生きている事を自覚した時、背中で電車のドアが開いた。
トドマリタケシが駅のホームに後ろ向きで降りそうになった時。それより早く目の前の男が通帳をぐゅいんっと握ってドアから走り出た、その様子によろめいたトドマリタケシの左足が駅のホームに着地すると同時に今度は女がトドマリタケシの右肩を突き飛ばす形で、通帳を握った男を追っていく…

そのまま後ろ向きでよろめきながらホームのベンチに腰をおろしたトドマリタケシの薄いグレーのシャツの襟が電車が走り出した風に吹かれて翻った。
なにやら叫びながら男を追う女の声が、改札へ上がるエスカレーターの上の方からトドマリタケシの耳に届いた頃。
なぜかトドマリタケシは笑顔だった。

「はーー。いい日だ。」
家を出る前にたまたまテレビで見かけた今日の占い。

心がさわさわしたら口に出して「はーー。いい日だ。」と言ってみましょう。きっとあなたの心は平和を取り戻し、ほっとする出来事があなたを救ってくれます。

そんな言葉をなんとなく頭にひっかけていたのだろう、トドマリタケシは駅のホームのベンチで1人。
「はーー。いい日だ。」ともう一度言ったのだった。

騒がしかった駅のホームの音が耳から遠ざかり、かわりに騒がしい蝉の鳴き声がトドマリタケシの耳に響き渡った。

でかけにコンビニで買ったヨーグルトドリンクがリュックに入っている事を思い出し、少し急いでリュックに手を入れる。
少ない荷物の中からすぐにヨーグルトドリンクを取り出すと、フタクチで飲み終えた。

勢い良く飲んだヨーグルトは、ゆっくりとトドマリタケシの胃を包むように体内に染み渡り、少しずつトドマリタケシに安堵を与えていく。

夏の暑い夕方に、得体の知れない揉め事を目の当たりにした今日は、少し心が揺れた、知らない世界を見た、いままでの人生で通過しなかった道をなぞったような、そんな気がしたのだろう。

トドマリタケシはあえて今の気持ちに名前を付けず、蓋をすることも無く、ゆっくりとベンチから立ち上がり、さっきの男女が駆け上がったエスカレーターに乗ると、自らの足を動かすことなく改札階へと上がって来た。

線路をまたぐ形で建てられているこの改札階の大きな窓の外には、夕焼けがなんの悪気もなく広がり、1日の仕事を終えようとしている太陽が充実に満ちた表情で輝いている。
「はーー。いい日だ。」
その夕陽に照らされてトドマリタケシは、とにかく早く家に帰りたくて、なんだか涙が溢れていた。


おわり。


「やっぱり夏が嫌い」朗読/熊谷拓明↓↓↓

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