やっと最近気付いた「話をすること」について
だいすけです。
あたるくんが闘病、入院生活のことを書いてくれてます。ラジオはやめてしまったんですがnoteを続けて書いてくれてるし、自分も久しぶりに自由に書いてみます。
今日は30年以上生きてきてやっと最近気付いた「話をすること」について書こうと思います。
自分ってさみしがりっていうのはわかってるが気の許せる人は数少ない
気の許せる誰かがいること、その誰かと話してやりとりする時間というのはかけがえのないものだと、ふと1人で淋しい気持ちになった時に思い返して思うものですね。
友人と話す時間が減ったことから、話始めた気の許せて話しやすい友人があたるくんでした。何か一緒にやろうと話をしてて「踊り場に響くのラジオ」を始めたんです。
あたるくんとは大学生の頃から友人で、連絡しない時もあり疎遠になったり、住んでる場所が離れたりもあったけど、些細なことを話せる数少ない友人だと今も思ってます。
些細なことというと、たとえば「今日何食べた」「何時に起きて、何時に寝た」とかそんな話ができる、共有できる関係ってあまり自分にいないんです。「何か用事がないと連絡されたら迷惑じゃないかな」とか「自分の話はつまらない」と思うんで、特にオチもない笑いどころもない話をし合える存在はとても大切なんです。
つまりとても悔しい
そんな気を許せて些細なことを話し合える関係の人とはあまり出会うことはないでしょうが、最近、もうさよならも感謝も言葉にして伝えられない、そんな大切な人との別れもありました。
素直に好きな人に好きであることや感謝をためらわず心から伝えようと思える人でありたいとここ5年くらいは思ってました。(出来ているかは別なんですが)
それはきっと今まで恋愛関係や交友関係などに関して「なぜ自分の気持ちをあの時伝えなかったんだ」という後悔が多少あるからだと思います。
そして、なにより伝えたいと思う相手であったこと、自分の想いを伝えてる時「同じ気持ちであって欲しい」という気持ちを込めていることもあると思います。
もうきっと話すことが出来ないであろうその人は何度も「同じ気持ちだ」と言ってくれて、自分の心が動いた瞬間や気持ちが重なるような感覚がいつまでも忘れられません。
キャッチボールじゃなくて、そっと手紙を渡し合っても、1つの粘土を2人で遊ぶそんなイメージでも良いはず
よく「会話のキャッチボール」なんて言い方をすると思いますが、当然、相手がいないといけないし、自分の投げたボールをキャッチしてくれて、ボールを投げてくれなきゃいけない。それに、キャッチボールしていて楽しかったり、安らげたり、ワクワクしたり…良い感情が湧いてくる…さらにもっとキャッチボールをしたくなるなんてのが理想かも知れません。
そんなキャッチボール…「会話できることは当たり前のことじゃないんだな」と思ったり、会話をするときに自分はもっと色んな気持ちになれることや、自分でも誰かに何かを伝えられているんだと、今更気付きました。
「もっと会話を大事にしていきたい」そう思っています。よかったらお話ししましょう!
また「踊り場で響くラジオ」でも、あたるくんとおがわくんと3人で話せたらと思っています。ではまた。