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江戸の里神楽・太々神楽

第20回 江戸里神楽を観る会を鑑賞してきました。昨年の第53回 東京都民俗芸能大会でもいくつか里神楽を観たので、その時の知見も併せて記事にします。

総説 江戸の里神楽・太々神楽

江戸の里神楽は能楽の衣装に歌舞伎の所作、歌舞伎や祭の音楽を取り込んだ黙劇という特徴を持っています。こうした芸態は中世に発達した念仏教化の思想を汲む壬生狂言に共鳴するところがあり、既に近世の段階で両者の類似性を指摘する声もありました。

古楽按ニ天保十二年五月五日立花町玉尾稲荷ニテ十八座の神楽を見たるに 其内山海幸易の神楽 鮹山神と角力有 是壬生狂言ニ似たり

江戸古楽軒、『壬生念佛踊餘考』、(珍書保存会、天保年間(謄本)、東京藝術大学所蔵)。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100377902/15?ln=en
江戸古楽軒、『壬生念佛踊餘考』、(珍書保存会、天保年間(謄本)、東京藝術大学所蔵)。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100377902/15?ln=en
上述引用箇所「古楽按」云々は割注部分にあり。

本田安次も古楽軒の言葉を「正しい観察」[1]と言っていますが、私も壬生狂言と江戸神楽の関係性は十分に考察の価値ありと感じています。


江戸里神楽の起源としては、文政年間―天保年間にかけて編まれた山崎美成の『海録』に

舞のひまに此彼もの語らふ事の序でに、主人八太夫の云へらく、「今用ゆる神樂の十二座などいへる舞は、土師の舞とて、おほ方百五十年計りも前かたにいで來にける也」といへり

山崎美成、『海録』、(国書刊行会、1915年)、294。

とあります。八太夫とは浅草寺三社権現社家にして神事舞の太夫だった人物といわれています。この土師流とは埼玉県の鷺宮〔土師宮〕に起源をもつ神楽の流派であり、本田安次は「おそくも享保の頃には既に行われていたと考えてよい」[2]と推察しています。
なお、計六十七座の神楽演目・解題を記した天保四年写本「氷川大宮縁起」(本来は無題)が『埼玉叢書 第三』にみえ[3]、ndl から閲覧可能ですので紹介します。この神楽の諸伝と土師流のかかわりを直接に示す記述はないものの、近世神楽にかんする興味深い史料なので紹介します。

里神楽の社中の数は江戸期には相当多かったことが推察されていますが[4]、今現在の主要な社中としては若山家(台東区蔵前)、間宮家(品川区東大井)、松本家(荒川区西日暮里)、山本家(東京都稲城市矢野口)の四社中が挙げられます。また、これら四社が伝承する演目には共通するところが多く、同じような演目を各社が有していたことが明らかになっています。
神楽の演目には以下のような系統があります――若山家の神楽を参考に――[5]。
・神代の物語を題材とした系統(古典神楽)
  天之浮橋 黄泉醜女 熱田神剣 など
・中世以来の物語を題材とした系統(近代神楽)
  紅葉狩 土蜘蛛 など
・童話を題材とした系統(お伽神楽)
  桃太郎 舌切雀 など
・狂言を素材とした系統(狂言神楽)。
  清水 釣女 など

さて、先の天保四年本に「大々御神楽」なる語が見えますが(P416)、江戸・東京には里神楽と別に太々神楽と称される神楽が点在しています。ただし、きょう里神楽と呼ばれる神楽と太々神楽と呼称される神楽とは、本来的に同じ起源をもつものであるという説もあります。
太々神楽は儀式的な舞を特徴とする神楽で、里神楽と同様に能楽仕立の衣装による舞を披露します。
太々神楽を伝える代表的な神社といえば、神田明神、品川神社、芝明神宮が挙げられます。その芸態については、後ほど触れてみます。

所感: 江戸里神楽を観る会・東京都民俗芸能大会から

私が里神楽に初めて接したのは、昨年に開催された第53回 東京都民俗芸能大会でのことでした[6]。この年は「鬼~コロナ禍からの復興を願って~」という題目で様々な団体が参加しましたが、里神楽として東都葛西神楽保存会による「紅葉狩」が上演されました。当時の映像が公式にアップロードされていますので、ぜひご覧ください。

まず、冒頭の音楽が特徴的です。いわゆる狂言、歌舞伎の下座音楽の幕開きに聴かれる片砂切が援用されています[7]。
こういった他芸能からの影響は様ざまな所作からも窺えました。
たとえば次の画像は平維茂と鬼の殺陣の場面ですが、歌舞伎でいう見得の所作を彷彿とさせます。このほか、殺陣の動作に山形(やまがた)・天地(てんち)の影響がみえるため、歌舞伎や所作事を知っている人物が取り入れたことを想像させます。 

35:12あたり

ちなみに鬼剣舞における下記のような所作も、歌舞伎とのかかわりを彷彿とさせます。こうした手を交叉させた見得は、『菅原伝授手習鑑』「車曳」などに見えます。

https://www.youtube.com/watch?v=eUz9Cj2mhCg
21:30あたり
http://kangekiyoho.blog.jp/archives/51985131.html

余談ですが、上記の梅王丸のような荒事では、踏み出した方の足の親指を立てる力指の所作をおこなうことが通例です。こうした型は図像的に表現された明王像にうかがえるため――特に鎌倉期に多い気がします――、尊格の絵画的表現に源流を求めることができるのかも知れません。

「金剛夜叉明王」『五大尊像』(醍醐寺蔵、鎌倉時代 12-13C)
東京国立博物館、醍醐寺ほか編、『国宝 醍醐寺展』(東京国立博物館ほか、2001年)、40。
「降三世明王」『五大尊像』(醍醐寺蔵、鎌倉時代 12-13C)東京国立博物館、醍醐寺ほか編、『国宝 醍醐寺展』(東京国立博物館ほか、2001年)、41。

第20回 江戸里神楽を観る会では間宮家の里神楽から「熊襲征討」と「花筐」、品川神社太々神楽による「花鎮」を鑑賞しました。
「熊襲征討」でも歌舞伎や所作事と同様の所作――東都葛西神楽保存会の「紅葉狩」にも通じる所作――が見受けられましたが、扇子をつかった要返にも似たテクニックが披露されたのには驚きました。

また、「紅葉狩」「熊襲征討」の両方でうかがえた面を換える振り(「紅葉狩」19:40)は、大陸の踊とのかかわりがあるのかも知れません。
くわえて、ひょっとこ面・おかめ面を被着した道化役の活躍などは、剣舞や獅子系踊、田楽に共通する形式として注目されます。

「熊襲征討」は先述した四社に共通する演目ですが、「花筐」は昭和二十年代に間宮家六世家元が謡曲を素材に編み出した作品で、実に七十年ぶりの蘇演とのことでした。

「熊襲征討」 第20回 江戸里神楽より
筆者撮影
「花筐」 第20回 江戸里神楽より
筆者撮影

品川神社太々神楽による「花鎮」は[8]、本田安次の報告をみるに「花静女」「花童子舞」と表記されることもある流麗な舞で、横軸の基調とする動作からは舞楽の影響を顕著にうかがわせます[9]。
また、爪先を上下させる独特な動きは、三番叟や道成寺における禹歩を取り入れた振りと思われました。

こうした踊の所作の源流と伝播、劇の構成にかかわる形式的な側面に対する研究は、極めて大きなテーマであると再認しました。

おわりに

江戸の神楽をとりあげ、その歴史、意味、芸態、所作にかんする色々なことを書いてきました。個人的な研究分野に直結しない踊としてあまり接してこなかった領域ですが、壬生狂言という念仏的な黙劇との関与が想像できたことで、色々と反省する機会にもなりました。
里神楽は神道的な作法、儀式的に展開してきた能楽、地域で発達した踊、都市に栄えた歌舞伎などの諸要素が詰まった宝庫だと思います。今後も色々な作品に接してその魅力を味わっていきたいものです。

参考文献

・里神楽に関わる刊行物
本田安次、『東京都民俗芸能誌 上巻』、(錦正社、1984年)。


[1]本田安次、『東京都民俗芸能誌 上巻』、(錦正社、1984年)、52。
[2]前掲書、51。
[3]「氷川大宮縁起」の題は編纂者の付けた仮称で、本田安次は「氷川大宮縁起」とすべきではなく「氷川大宮神楽縁起」とすべきであったと言っています(前掲書、P53)。
[4]本田安次によれば(前掲書、P87)、東京都とその近郊における社中の数は、明治期で五十七家に及ぶと紹介しています。
[5]島田啓子、石綿美和子、漆間和子三氏と若山氏の整理による(前掲書、P105―115)。
[6]東京都民俗芸能大会については別記事で触れていますので、ご興味ある御方はご参照ください。

[7]東京藝術大学小泉文夫記念資料室のYouTubeチャンネルに「日本 邦楽囃子 『砂切』」として参考音源があります。
[8]太々神楽の目的は天下泰平、大君武運長久、社頭康榮、除諸疾病などと祝詞に唱えられます。「花鎮」という作法に対する解説は見えませんでしたが、敢えておこなわれていないことから陰暦三月に営まれる疫病退散の儀礼とみて良いように判断しました。
[9]昭和11年筆「太々神楽番組併曲目」の「花童子之舞 又之名花静女トモ云フ」にみえる「延譜」の字は(前掲書、P74)、舞楽でいう「振鉾」の訛化したものと推察されます。