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「子ども同士の注意」はする?しない?

 年末年始で家のことが忙しかったため、ろくに開きもしなかったnote。2022年が始まって1週間、ようやく筆をとることにします。
 今日は、学級経営におけるちょっとした方針(自分の考え)について書きます。それは「『子ども同士の注意』をどう扱うか」です。
 何も指導していなければ、1日に数回は見かけることでしょう。例えばこんな場面を・・・。

「○○くん!ごそごそ動かないでちゃんと勉強やって!」

とまあその他諸々、友達同士で注意し合うということはよくあると思います。これについてみなさん、どのようにお考えでしょうか?

子ども同士の注意は、させない

 私は4月にはっきりと子どもたちに言います。

「この学級では、友達同士での『注意』は、しません。『注意』をするのは先生の仕事です。」

続けて次のことも伝えます。

「見つけて声を掛けるなら『その人のダメなところ』ではなく、『その人のよいところ』を見つけて声を掛けるようにしましょう。誰だって自分のイヤなところを他人から指摘されるとイヤな気持ちになります。見つけるなら『よいところ』を見つけて、どんどん伝えてください。『よいところ』をクラスメイトに見つけてもらったら、誰だっていい気分でしょう。」

また、折に触れて次の話もします。

「私は、注意をするのは先生の仕事だと言いました。ここにいるみんなは、一人一人違います。できることも違えば個人的な事情も違います。先生はこの中の誰よりも一人一人の事情をよく分かっているので、みんなから見て『よくないのではないか』と思うことをしていても、『あえて』注意をしないときがあります。つまり『分かっているけど放っておいている』というときがあるということです。もしそれが『自分に迷惑がかかっているな』と思えば、先生に教えてください。逆に『あいつの今の行動、よくないっぽいけど、自分には関係ないから放っておこう。』と思うなら、放っておいてください。もちろん、迷ったら相談してきてくださいね。」

「友達同士の注意させる」と、どうなるか?

 逆に「友達同士の注意を積極的にさせる」と、どうなるでしょうか。

 具体的な言葉を挙げて考えていきます。例えば先生によってはよく言うこの言葉。

「注意してくれてありがとう。」

 十中八九、言っている先生は何の気なく、何の悪気もなく言っています。

ではこの言葉、学級の子どもたちはどのように受け取っているのでしょう。

私が子どもだったら、こう受け取ります。

「あ、友達を注意すると、先生から褒められるんだ。注意するところ探そ。」

 全員ではないにせよ、このような空気は生まれるはずです。人のダメなところは目に付きやすいので、褒められるには手っ取り早い方法です。私なら積極的に友達の悪いところを注意しまくると思います。先生も認めているのですから。
 さて、それに気づかず、教師がこのような声かけを続けていればどうなるでしょうか。
 そう遠くない未来、「わざわざ友達の粗探しをして、友達同士がいがみ合う学級」が見事に出来上がることでしょう。

「規範意識が高い集団」の危うさ

 「友達同士が積極的に注意し合うことができる集団」は、一見すると、「みんながルールを守れるように、子どもたちが自発的に集団を維持しようとしている」状態に見えます。つまり、集団を構成する人の多くが「規範意識が高い」ということです。「規範意識が高い」ことは、一般的にはよいと思わていれることなので、学級経営においてもいいだろうと思いがちだと思いますが、私は「規範意識が中途半端に高い集団」は危ういと思っています。
 
学級にいる子は様々です。中には「ルールを守ろうと思っても、どうしても守れない」という状況の子もいます。
 
そういった多様な子どもがいる中で、「規範意識の高い個人が、規範意識の低い個人の上に立ってしまう」という状況は、学級経営においてはまずいと思うのです。

「注意するところを見つけて指摘すると褒められる」

「ルールを守っていない行動を指摘すると褒められる」


「ルールを守っていない子に対しては、厳しく言っても構わない。」

「何回注意してもルールを守ってくれない。あいつ何なの!?」
 

 
 「このような雰囲気が蔓延している規範意識が高い集団」は、次第に「ルールを守れない人」に制裁を加えたり、排除しようとしたりするようになります。

 なぜなら「集団を維持したい」からです。

 「集団として正しくありたい」という個人の思いを、様々な特性や発達課題、事情がある人に対しても強要しているわけです。

 この「制裁」や「排除」が、いじめを生みます。しかも、「集団を正しく維持する」という大義名分をかざして。

他人へは「寛容さ」と「相手への理解、思いやり」が大切 

 このように、先生が認めた「ルールを守っていない人を注意してよい」という声掛けが、持っていき方によっては「集団を維持するための制裁、排除」という形の「いじめ」を生んでいくことがあります。
 なので、私の学級経営の方針としては、子ども同士の注意はさせません。
 これは、ここ数年よくメディアでも取り上げられている「SNSでの誹謗中傷」や、コロナ禍でのいわゆる「自主警察」においても同じことが言えると思います。これからの社会は

「統率の取れた秩序ある集団を作る」ことよりも、

「多様な人が互いに寛容さをもって支え合い、それぞれのよさや強みを最大限に発揮させる集団を作る」こと

が求めれる時代です。

 よく「学校は社会の縮図である」と言われます。その社会の縮図である学校、学級を「寛容さ」と「相手への理解、思いやり」を大切にする場所にすることが、これからの「多様性を認める社会」を作っていくことの第一歩なのではないかと思っています。

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