経済論理の通奏低音を「善なる意思」にしようぜ。

人から財産を奪うほうが効率が良いし、邪魔な人間は殺してしまったほうが良い等々、というある側面「だけ」から見た悪とされることの効用の最大化というのは否定できません。

ただし、人間はそういったものを排除するように歴史をつくってきている面もあるという見方を私をしています。事実、最初に述べたような「悪の論理」を躊躇いなく実行する人は多くはないでしょう。

事実、日本は男女格差でOECD中最下位になるなど、まだまだ駄目なところはありますが、20年前よりは格段に良くなったりしています。被差別部落などの改善もそうですが、当事者が声を上げたり、働き続けているということは差別改善において共通してみられるのではないでしょうか?

さて、そうした道徳的な論理は何故か「ビジネス」のことになると無きもの(亡きものと書いても良いでしょう)とされてしまいます。
よくエキスキューズとして使われる紋切り型の決め台詞に、
「そうは言っても、これはビジネスだからね」
というのがありますし。

倫理的に中世の魔女裁判の時代や、兄弟で殺し合いをしていた頃よりまともになった筈の世界において、ことに経済の領域においては10世紀〜20世紀は遅れているんじゃないかなと私は思ったりします。

何故なんだろうと考えたときに、それは経済の論理やお金儲けの論理の背後にズーンと流れる通奏低音のようなものが悪の論理のまま放置されているからではないかと思索する訳です。思索なので、間違ってるかもしれませんし、これが正しいとか押し付けるつもりは毛頭ありません。

ただ、そう考えると前提条件が悪の論理を良しとするものであると考えると、倫理よりお金をとるという現象を説明できると思うんですよね。
だから、最近だとミャンマーの軍事クーデターで軍隊がデモ隊を平気で戦場で使う兵器なんかで19歳の女のコを殺したりしていても、ミャンマーに工場や現地法人のある企業はなんにも言えない。なぜなら、利益をあげる際、善なる意思は利益を削ぐことにしかならないから。

うーん。変えたいですね私は、そういうの。
経済の論理の背後に流れる倫理感を「善なる意思」の通奏低音に変えようぜ。バロックから、ロマン派にそろそろ進みたいなぁ。
あと、「ビジネスだから」という言い訳も無くしたい。

そういう理想論の思いを綴ったnoteでした。

書く際に触発された文章
https://twitter.com/Akikosato711/status/1370297494324670468?s=19

参考文献
https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20210226-00224697/