『レディ・プレイヤー1』3D Blu-ray 感想
私は『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』『レディ・プレイヤー1』の3本で勝手に「スピルバーグパフォーマンス・キャプチャー3部作」と呼んでいる。常に俳優や物体を3次元的に配置し、相互作用でアクションとエモーションを生み出し続けてきた「ごっこ遊び」の帝王が、最新ごっこ遊びシステムをどう駆使し、何を得て何を失ったのかという興味深さがあると思う。
私は小さい時からレイダースやらE.T.を観て育ったスピルバーグっ子ではなく、ずっと映画館で新作ばかり観ていた子供だったので、スピルバーグの原体験は『タンタンの冒険~』だった。明らかに実写映画のルックなのに、カメラも照明も変幻自在。脚本は本当につまらないが、ひたすらその映像の躍動に感動した。
パフォーマンス・キャプチャーアニメーションを観て「これなら実写でやればいいのに」「アニメでやればいいのに」という感想をよく見るが、そういうことではない。実写(もどき)撮影によって確実にデータに落とし込まれた物理運動、俳優の芝居、そういったものが3DCG空間の中で再配置され、バーチャルカメラで映し出される、その「アニメと実写のいいとこどり」がパフォーマンス・キャプチャーアニメーションの唯一無二性だ。実写よりペラとかアニメよりキモいとか、そういうことはどうか言わないでほしい。別物だ。でも『ポーラー・エクスプレス』のトム・ハンクスがキモいのは事実だ。
でも完全にキモくなくなるのがもう時間の問題なのは(手付けアニメーションの力もあるが)『ジェミニマン』や『アリータ:バトル・エンジェル』を観ればわかる。不気味の谷を完全完璧に乗り越えたとき、パフォーマンス・キャプチャーは映画撮影のスタンダードになる。天候、俳優のスケジュール、身長や体重、肌の色やジェンダー、特殊メイクの準備時間にも何にも一切左右されない映画撮影ができる時代がもうすぐそこまで来ている。
さて『レディ・プレイヤー1』の3D Blu-rayを観た。例の如くPSVRで観た。この映画をVRゴーグルで観るというのは、その体験込みでワクワクする。特にオアシスに入り込むところ、デジタル廊下みたいなのがギュイーンと奥に伸びるところなんか、今身に着けているPSVRゴーグルと主人公が着けているゴーグルが完全一致するような錯覚に陥ることができる。
当時IMAX3Dで観たときも思ったけど、3Dメガネをかければ左右の視界はある程度遮られるわけで、これに似た感覚を得ることができる。こういう超パーソナルな視点の映像みたいなものは「3Dメガネをかけて観る」という3D映画の性質と相まって本当に相性が良いなとしみじみ思う。
視差は他の3D Blu-rayと比べてもかなり激しい部類で「これなら2Dで観ても変わらないじゃん」なんて絶対に言わせない気迫に満ちている。そんでもってカメラがガンガン回転したり揺れたりするもんだから、滅多に3Dで酔わない自分も少し気持ち悪くなった。でも、スピルバーグの映画で気持ち悪くなれるなら、それはもう「気持ち良さ」である。
『タンタンの冒険~』の3D Blu-rayがちょっと拍子抜けするぐらい視差が弱い超安全設計3Dだったのに対して、こちらはもう視覚の暴力。やはり『タンタンの冒険~』は実験的に3Dをやってみよう的なニュアンスのものでしかなかったんだろうなと思った。カメラワークに合わせて首を振ったりすると本当にオアシスにいる気分になる。スピルバーグの3Dの熱の入れようはこの宣伝動画からも感じられる。
ここでスピが言っているのが、現実世界パートとオアシスパートで3Dの深度を変えたということ。これは『トロン:レガシー』や『コララインとボタンの魔女』でもやっていることなので、それ自体は別に新しい試みではないのだけれど、1番感動したのは現実世界の3D変換処理の精度の高さだ。
確かこの映画の現実世界パートは全てフィルムで撮っていて、それ故100%変換処理3D映像なのは間違いない。でもどう観てもリグを狭くして薄めのステレオ撮影したネイティブ3D映像にしか見えない。
特にファーストショットの広い画。遠くから捉えると立体視認距離の関係でほぼ平面に見えるものが、カメラがゆっくり近づいていくことで少しずつ立体味を帯びてくる。どう3D変換したらこんな自然な映像になるんだ。
ガラス越しの人間の、ガラスに景色や人物が歪んだ立体感を伴って反射する感じなんかも細かく立体化されている。『ジュラシック・パーク3D』のコンバートもめちゃくちゃ凄かったけど、更にその上をいく精度で感動した。
また、個人的に本当に好きな点がもうひとつあって、オアシス空間での映像で、頻繁にカメラに埃が付着しているところ。液体がカメラに被ったりするシーンでカメラのレンズに水滴がつくような演出はよくあるが、埃はなかなかない気がする。しかも理屈上3DCGアニメの画で。
このピンボケした埃は大体3D深度プラスマイナスゼロのレイヤーに配置されてあって、それによって何が飛び出て、何が画面に奥行きを与えているのかという酔狂な楽しみ方ができる。でも1番の効果としては「実際にカメラで撮影しているのではないか」という錯覚が得られる点。これはキャメロンが『アバター』シリーズで執拗に急激ズームインをしたりするあのカメラ遣いのもっと高級版だと思う。
そして話は戻るが、現実世界パートとオアシスパートで深度を変えている点について。これは上記で言った通り、それ自体は確かに新しいものではないけれど、この『レディ・プレイヤー1』にしかない効果があったように思う。
それは「2Dの安心感」だ。視差の激しいバキバキの3Dバーチャル空間の大冒険の合間合間に挟まれる、視差の薄い現実パート。そこで主人公が「なんか……現実ってこんなゆっくりなんすね」と言うシーンの納得感が3D版と2D版では全然違う。2Dは本当に安心する。だから3Dが非日常で楽しい、という意味で3Dという上映方式そのものがテーマに肉薄すらしていると思う。
バートンの『フランケンウィニー』のリメイクアニメ版の主人公は、自分以外の人間に自分の映画を観せるときは3D上映をしているのに対し、自分ひとりで観返すときは2Dで観ている、というくだりがある。3D映画というのは本当に素晴らしく、たくさんのワクワクを与えてくれるけど、それだけじゃダメなんだ。週に2回は2Dで映画を観て彼女といちゃつこう、という映画が『レディ・プレイヤー1』なのかもしれない。
ちなみにこの「彼女といちゃつき」オチは本当に何回観てもオタク臭くて好きだ。主人公がストーリーのかなり早い段階でメンタル的には「脱オタク」化しているので、感動するとか成長を感じるとか、そういった格調高さはないけど、精神的には『E.T.』でのラストの宇宙船を見送るエリオットの顔ショットと同じニュアンスのシーンだと思う。オアシスの管理者になっても彼女といちゃつき、E.T.とはちゃんと別れる。だからスピルバーグは偉大なんだなといつも思う。だから『未知との遭遇』は好きじゃない。
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