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見学会レポート 豊臣秀長(秀吉実弟、所領百万石)の居城『大和郡山城』・『高取城』と世界文化遺産推薦決定の明日香地方に遺る『古代アジアの国家形成過程の遺跡群』をめぐる旅

 令和6年11月20~21日にかけて行われた当会の見学会の模様に加え、見学会資料をテキストにて公開します。 
当日は予定とは異なり以下の行程で行われました。
1日目:大和郡山城→慈光院→薬師寺
2日目:高取城→高松塚古墳・同壁画館→石舞台古墳→飛鳥寺跡(安居院)

1 大和郡山城 奈良県大和郡山市 県指定史跡 続日本百名城 №165

大和郡山城 追手向櫓と追手門

【立地】
 郡山城は奈良盆地の北部、秋篠川と富雄川の中間に突き出た南北に長い西京丘陵南端上に位置します。城下町は南東の低地部分に広がりますが、奈良方面に向かう街道を領地内に取り込んでおり、交通の要衝に市場を配置しています。
 整備された天守台展望施設からは、大和郡山のまちなみの他、若草山から三輪山の山なみと、平城京大極殿・薬師寺などの史跡など、奈良盆地を一望することができます。
 
【歴史】
 戦国時代の郡山市域では、「郡山衆」とよばれる土豪たちが館を構えて勢力争いを繰り広げていました。その後、織田信長の支援により大和武士の棟梁となった筒井順慶が筒井城から郡山に入り、郡山城の築城と城下町の整備にとりかかったのが郡山城のはじまりです。
 筒井氏の後、豊臣秀吉の弟秀長が大和・紀伊・和泉で百万石を与えられて郡山に入りました。城郭は徐々に整備されましたが、早くも豊臣秀長の時代にほぼ完成し、増田長盛の外堀普請によって城郭の規模が定まったとされています。郡山が大坂城を守るための重要な土地だったこともあり、本格的な近世城郭づくりを進めるとともに箱本制度をはじめ城下町の整備に力をそそぎました。
 
 郡山は大坂夏の陣で戦火にあい、荒廃した時期もありましたが、元和元年(1615)に水野勝成、ついで元和5年(1619)徳川家康の孫松平忠明が郡山に封ぜられ郡山城と城下町の復興に努めました。その後も、徳川一門・譜代の大名である本多氏(第一次)・松平信之・本多氏(第二次)が城主となっています。
 
 享保9年(1724)には柳澤吉保の子息吉里が甲府から十五万石あまりで国替となり郡山に入りました。以後、柳澤氏が六代にわたって在城し、保申(やすのぶ)の時に明治維新を迎えました。
 
 明治維新後、明治6年(1873)に郡山城は競売にかけられ解体されましたが、近年、追手門・追手向櫓・東隅櫓などの門や櫓(やぐら)が復元され、往時の威容をしのぶことができるようになりました。一帯は「郡山城跡公園」として公園化されており、散策路も整備されています。2017年には「続日本百名城」(財団法人日本城郭協会選定)のひとつに選ばれました。
 
【遺構・建物】
 郡山城は内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣堀(そうぼり)の構えを持ち、この中に城郭の中心部や武家地、城下町を配置しています。
現在、天守は残っていませんが、天守郭、毘沙門郭、法印郭などの城郭中心部は奈良県の史跡に指定され、内堀や石垣が良好に残っています。
 
 天守台は石垣に崩落する危険が生じたために平成25年度から平成28年度の4か年にわたって石垣の修復と展望施設の整備事業が行われ、平成29年3月に完成しました。また、天守台石垣には転用石が見られます。特にさかさ地蔵と呼ばれる逆さに積み込まれた石地蔵があることでも知られています。これらは豊臣秀長が城を増築する際、周辺の寺院等から石をかき集め天守台北面に逆さに積み込んだものですが、さらに江戸時代に積み見直しが行われています。

大和郡山城 追手門

 追手門は、発掘調査により、豊臣秀長の時代にまで遡ることが確認されました。市民活動の募金により、豊臣秀長の増築当時に近い形で昭和58年(1983)に復元されました。追手向櫓は毘沙門郭北東隅の張出に設けられた二重櫓です。昭和62年(1987)に復元されました。  
追手東隅櫓は常盤郭南東隅に設けられた二重櫓です。追手門とは二一間半(約40m)の多聞櫓で連結されており、昭和59年(1984)に多門櫓とともに復元されています。
 
 極楽橋は本丸と毘沙門曲輪に掛かっていた長さ22.12m、幅5.4mの木橋で令和3年に復元工事が完了し一般公開されました。

2 慈光院 大和郡山市小泉町


慈光院に入る会員

 慈光院は寛文3年(1663)、小泉城主片桐貞昌が父貞隆の菩提を弔うため、京都大徳寺の玉舟を開山に招じて創建した寺院です。 片桐貞昌は、片桐且元の甥で、茶道石州流の祖として知られ、寬文5年(1665)には4代将軍徳川家綱の茶道師範となりました。

慈光院 書院

 寺としてよりも、大名茶人好みの書院・茶室と大和平野を情景とした庭園で有名です。入母屋造、茅葺きの素朴なたたずまいをみせる書院の内部は、上の間・中の間・下の間からなり、上の間は大名、中の間は家老、住職の席となりました。書院の北東隅にある茶室は、2畳台目の本席に、2畳の控えの間付きで、主人床の席として知られる江戸中期の代表的な茶室です。書院の縁先にある「角ばらず」「独座」「女の字」と名付けられた3つの手水鉢も名高く、書院・茶室は国の重要文化財、手水鉢も付指定となっています。    書院の庭園は枯山水ですが、石組を用いず、白砂を前にした大刈込みを配しただけのもので、大和平野を1望に収める雄大な借景が見事です。いかにも大名茶人の庭園らしい風格があり、国の史跡・名勝に指定されています。寺の楼門は、片桐且元の居城した茨木城(大阪府)の楼門を移したものになります。

3 薬師寺 奈良市西ノ京町

薬師寺

 薬師寺は唐招提寺の南、約800mにあります。かつてフェノロサが「凍れる音楽」と評した美しい三重塔で有名な寺院です。680年に天武天皇が菟野(うの)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して造営が始められ、天武天皇の死後、その遺志を継いだ持統天皇により、679年に完成したと伝わります。
 寺は当時の都、藤原宮にありましたが、和銅3年(710)の平城遷都の際、他の諸大寺とともに、現在地に移りました。養老2年(710)のことて、旧寺の跡は、本薬師寺跡(国特別史跡)として橿原市城殿町にあります。この移転については旧地の全伽藍・仏像をそっくり移したとする説と、寺籍や由緒だけを移し、建物や仏像はあらたに造立したとする説があります。近年、東塔には移築した痕跡がないことがわかり、非移建説が有力になっていますが、いまだ確定していません。

 南都七大寺の一つに数えられたこの当寺は、六条大路に面した南大門(国重文)から入ると、東西に東塔・西塔、中央に中門・金堂・講堂が1直線に配され、周囲に回廊を巡らした、薬師寺式伽藍配置をもつ大寺でしたが、天延元年(973)に金堂と東西両塔を残して焼失、その後も数度におよぶ火災によって、創建以来の建物は東塔(国宝)のみとなりました。
現在の建物は、東院堂(国宝)が鎌倉時代の弘安8年(1285)の再建であるほかは、江戸時代の再建になります。

 昭和51年(1976)に復元・再建された金堂内の天平期の金銅仏薬師三尊像をはじめ、東院堂の聖観音像や、仏足石およびその歌碑(いずれも国宝)など、貴重な国宝・重要文化財を多く所有しています。とくに三重塔は、各層に裳階を付け、一見,六重に見えるもので、現存するわが国の塔の中ても、最も美しいものと評価されています。また塔の項の相輪部の水煙には、奏楽の飛天の透かし彫りが施されており、その実物大複製が東院堂に置かれています。昭和56年4月には西塔も450余年ぶりに再建、復元されました。

 講堂に安置されていた銅造薬師如来両脇侍像三体は、平成5年(1993)から4年間かけて保存修理が行われました。同6年に回廊が創建時の姿に復元され、同7年には江戸末期に再興された講堂が解体され、同15年に創建時の姿に復元されました。
 東塔の北には鐘楼があり、「西の京の破れ鐘」の名で知られる梵鐘がある。境内には、ほかに摩利支天堂・竜王堂・不動堂などの小堂がある。
新西塔の南にある休岡若宮社は、もと南門外にあったのを近年ここに移したものです。一間社春日造の檜皮葺きで、鎌倉後期の建立。また南大門前の六条大路を隔てた南には、当寺の鎮守として建てられた休岡八幡宮があります。本殿は休岡若宮社とともに、国の重要文化財に指定されています。

国宝 東塔(三重塔)
 一見すると六重に見えるが実際は三重の塔で、各層に裳階(もこし)を付けています。その立ち姿の美しさはわが国塔婆中随一といわれるもので、勾配のゆるやかな屋根と、各層の母屋と裳階の変化から生じる美しい諧調と、相輪部の水煙の透かし彫りで知られています。
 この塔が建てられたのは天平2年(730)といわれますが、軒は二軒で軒天井があり、三手先の組物があらわれ、肘木には舌(ぜつ)があるなど、白鳳期(7世紀後半)の様式を伝えています。内部の天井は組入天井で格間と支輪には暈繝(うんげん)彩色の花文が描かれています。
 この塔の初層内部には、道昭の将来と伝えられる仏舎利と、近世作の四仏四天王像が安置されているが、もとは釈迦八相の塑像が東・西両塔に納められていたと伝わります。その残欠が今も寺に伝えられています。この東塔の相輪部は10.34m、塔の高さの約3分の1にあたり、重さは約3トン,といわれる。下から露盤・伏鉢・平頭(請花がないのが特徴)・九輪・水煙・竜車・宝珠の各部からなり、とくにその水煙部には奏楽の童児と散華の飛天が透かし彫りになっている見事なもので、東院堂内にその実物大複製が納められているので間近に見ることができます。
「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」
という佐々木信綱の歌碑が東塔の近くに立っています。

金堂
 伽藍の中心をなす堂宇で、古縁起書に基づき、昭和51年に復元されました。構造は二重二閣、内陣の部分は耐震耐火の鉄筋コンクリート造で、周囲は木造となっています。以前は延宝4年(1676)再建の仮金堂だしたが、復元で境内は三重塔・二重金堂・一重講堂が備わることとなり、薬師寺独特の景観にいっそうの壮麗さが加わりました。堂内には珍しい白大理石の須弥壇があり、その壇上に天平彫刻の傑作として有名な、薬師三尊像が安置されています。

国宝 薬師如来および両脇侍像
 中尊の薬師如来像は254.7cm日光・月光の両菩薩像はともに三余りの金銅仏です。火災によって化学変化を起こしたと言い伝えられ、漆黒の光を放っています。
 本尊薬師如来像は、高さ1.50メートルの金銅製の宣字形台座の上に結跏趺坐(けっかふざ)し、左手は掌を上に、中指をかすかに曲げて左膝の上に乗せていますが、薬師仏の特色である葉壺を持っていません。両手の掌には美しい法輪が1個線刻され、右膝上の足裏には瑞祥文が刻まれています。
 両脇侍の日光・月光菩薩像は、中尊の薬師如来に対して左右に侍立し、やや腰をひねっている珍しいもので、三尊を一具とする三尊形式を意識したこのようなポーズは飛鳥時代にはないものです。三尊に共通して認められる写実的な造型も新しいもので、豊かな肉付きの堂々たる中尊は容貌も身体も成人の相好を示し、白鳳期美術の傑作として知られていますが、天平初期の作とする説もあります。
 また、中尊の金銅の台座は、飛鳥時代の宣字形台座の伝統を継いでいますが、葡萄唐草文様と宝玉文、裸形の鬼人、中国伝来の四神である青竜・白虎・朱雀・玄武が浮き彫りで刻まれ、ヨーロッパ・インド・中国の文様を取り入れている点に注目される。この三尊の光背は木造で当初のものではなく、江戸時代(17世紀)に造られています。

4 高取城 奈良県高市郡高取町 国指定史跡 日本百名城№61

高取城 天守台

【立地】
 高取城は奈良盆地と吉野川(紀の川)にはさまれた標高約586mの高取山上に位置します。そこからの景色は天気が良ければ大台ヶ原(おおだいがはら)や山上岳(さんじょうがたけ)など奈良南部の山々や、遠くは大阪平野や六甲山なども眺望することができ、奈良と吉野を結ぶ要衝である芋ヶ峠を監視するには絶好の場所です。
 「たつみ高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」これは高取城の壮麗さを謡ったものです。石垣の上には漆喰で塗られた建物がありました。山に雪が積もったかのように白く見えたのかもしれません。

【歴史】
 高取城を築いたといわれる大和越智氏の出自については諸説あってくわしいことはわかっていません。古くは「国中」と呼ばれていた奈良盆地は、興福寺や春日大社などの宗教勢力の影響下にあった地方豪族たちが勢力を伸ばし、やがて越智氏、十市氏、箸尾氏、筒井氏の大和四家が形成されました。
南北朝時代には、大和四家の中で、貝吹山城を本拠とする南朝方の越智氏が台頭し、北朝方の筒井氏と大和の支配権をめぐって対立しました。こうしたなか、高取城は正慶元年・元弘2年(1332)に越智邦澄が貝吹山城の支城の一つとして築城したと考えられています。

 やがて応仁・文明の乱(1467~77年)では畠山氏に仕えて筒井氏とも共闘関係となりました。その間、高取城は一貫して越智氏の支配下にあり、戦国時代には本拠地となっていました。築城から200年後の天文元年(1532)、証如率いる一向一揆衆が大和へ侵攻し、高取城を大軍で包囲しましたが、筒井氏が背後から攻撃したため、一向一揆衆は敗走しました。
 越智氏はその後、完全に筒井氏の支配下に入り、永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、筒井氏とともに信長の軍門に降りました。その後、天正8年(1580)には信長の命で大和郡山城を除く大和の諸城が取り壊され、高取城も一時廃城となりました。

 天正10年(1582)に本能寺の変で信長が急死すると、筒井順慶は豊臣秀吉に味方し、越智氏もこれに従っています。しかし翌年、越智氏の最後の当主頼秀が順慶に殺害され(自害説もある)、越智氏は滅亡しました。翌天正12年(1584)から順慶は大和郡山城の支城網の一つとして改修を加え、高取城の城域はさらに拡張しました。しかし翌年、順慶の跡を継いだ定次は伊賀上野へ移され、秀吉の弟秀長が大和郡山城へ入城しました。

 高取城へは秀長の重臣脇坂安治が入り、のちに同じく重臣の本多利久・俊政(利朝)父子に与えられました。文禄年間(1592~96)には近世山城として大改修が行われました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、俊政が会津へ遠征中、高取城は石田三成勢の攻撃を受けましたがもちこたえ、戦後本多氏は大和高取藩主として所領を保証されました。

 江戸時代には本多政武が跡継ぎのないまま死去し、高取藩は一時幕府の直轄領として大和新庄藩の桑山一玄と丹波園部藩の小出吉親が城番を務めました。寛永17年(1640)に徳川氏譜代の旗本植村家政が大名に取り立てられ、高取藩を再興しました。幕末には尊攘派の天誅組に攻められましたが、13代家保は高取城に拠ってこれを撃退しています。そして、十四代家壺(いえひろ)のとき、幕末を迎えました。

高取城 十五間多門櫓

【遺構】
 高取城は、城山に点在するすべての郭を含む範囲を「郭内」とよび、二の門・壺坂口門・吉野口門で固められた狭義の城域を「城内」とよびます。郭内には黒門から二の門までの別所郭・岩屋郭、その途中、大手道沿いに点在する諸郭があります。二の門から岡口門の間には鉄砲矢場・横垣郭があり、岡口門近くに諸木台がありました。壺坂口門の下に家臣屋敷群があり、尾根道を西に行くと八幡郭があります。吉野口門からみろく堀切までに赤土郭があります。

 黒門の先、大手道登城口付近で登城道は複雑に屈曲をくり返します。これを七曲りといい、山城ではよく見られる形式で、敵の侵入を妨ぐ役割を果たしていました。七曲りを進むと、長い直線の登攀路になります。一升坂と呼ばれていますが。高取城築城の際、石を運ぶ人夫の労務があまりにも過酷なため、米を一升加増したことに由来するといわれています。
 さらに足を進めると猿石と呼ばれる奇妙な石造物が現れます。明日香村にある四体の人面石像と同種のもので、制作は飛鳥時代にさかのぼります。築城の際、石垣材として持ち込まれました。二の門の門外に置かれており、その二の門から先は「城内」と呼ばれていました。ちなみに二の門の建築遺構は、子嶋寺に移されて現存しています。門の櫓台は、城に向かって左側の石垣がよく残ります。二の門の前には、山城では珍しい水堀が残ります。山城でありながら水堀があることも高取城の特徴です。大手の守りを固めたこの堀の水は、高取川の水源となっています。また、堀の東側には堤の跡が残ります。
 城内は二の門から本丸まで、三の丸・矢場門・松の門・宇陀門・千早門・大手門・十三間多聞・十五間多聞・下の門と上の門、都合九か所(二の門を含めて10か所)の関門があり、本丸を含めて11層に区分できます。

 

高取城 大手門

 大手門は、二の丸・本丸に直接入る唯一の重要な虎口で、高取城の城門では最大級の枡形を構成しています。御城門とも呼ばれていました。大手門から内部の二の丸・本丸部分は石垣も壮大で、防備厳重な構えになっています。二の丸は南北で2段に分かれており、南側の空間は東西約65m、南北約60mを測ります。当初はここに藩主の居館が設けられていましたが、寛永19年(1642)には山麓に新たな藩主居館が設けられました。二の丸から本丸に至る部分には、十五間多聞と下の門の間に外枡形状の小曲輪が置かれていました。上の門から中が本丸になります。その西側を画するのが太鼓櫓と新櫓をつなぐ石塁です。いずれも古写真によれば、二重二階の構造を持つ櫓でした。

 本丸は、天守のある内郭とその周囲を取り囲む外郭で2重になって整然とした繩張りを持ちます。天守の郭に上る虎口は三の門・二の門・一の門をそれぞれ屈折してくぐるようになっており、厳重な桝形門で固められています。天守は本丸の北西隅にあり、三重三階地下一階の構造をもちました。南側に穴蔵が残ります。本丸の南西隅には、三重三階の小天守がありました。石垣も本丸部分が最も整った積み方で、時代は天正年間以後のものと考えられています。

 本丸・二の丸以外の大手門から外の部分が広義の三の丸になります。そのうち千早門以内が狭義の三の丸で家老屋敷とよばれています。壺坂口中門から外は壺坂口郭です。そして、壺坂口門は城の西側(壺阪寺方面)に設けられていた城門です。こから延びる道は八幡曲輪につながり、その北端には八幡宮かまつられています。八幡宮は、かつては二の丸にありました。

 城内の諸郭はすべて石垣で固められ、中世の高取城の痕跡は全くありません(石垣のない壁面は積石が崩落した可能性があります)。郭内に散在する諸郭もほとんど近世の築造と評価できます。
 局部的にみれば、石垣を用いず、単郭な連郭であるものが多いですが、位置から考えて、中世に築く必要のないものと考えられます。ただ八幡郭だけは、越智氏がよく立て籠もった壺坂寺との連絡道を確保するために必要な立地であり、繩張りも中世的です。

 二の丸の西北下の突出部分は古川屋敷とよばれ、さらにその先は焔硝蔵で、両脇の石塁は厚く先の石垣は薄くなっています。つまり、火災の時の爆風が城外に向くように造られています。

 喰違門から外の東北尾根上に突き出した屋敷群があります。ここが吉野口郭で、その先端に巨大な空堀があります。この空堀は弥勒堀切と呼ばれ、本丸南東隅の赤土曲輪と呼ばれる曲輪から東に延ひる尾根を断ち切った堀切で、両端は竪堀となっています。かつては弥勒橋が架かっていました。

 井戸については、本丸の北の斜面の下、擂鉢状の底に石積みで固めた池のような大きな井戸があり、その西隣、大手門から下った井戸郭にも小さな井戸が2か所、本丸の天守台の前に一か所、矢場門の北の谷に一か所、計五ケ所あります。

 近世には、家臣団集住の体制がとられたので、城下と隔たった山城に藩主が常住すれば、家臣全部が山上生活を強いられます。全国で最も比高のある高取城が、最も広大な屋敷地を抱え込んだ山城にならざるをえなかった所以になります。いいかえれば、他藩における山下の家臣屋敷地がすべて山上に集まった形が高取城の場合であるといえます。

高取城 本丸南石垣

5 特別史跡 高松塚古墳 明日香村平田

高松塚古墳

 文武天皇陵のすぐ北東にある。昭和47年3月21日、内部を発掘調査中に石室内部か極彩色の壁画4面が発見され、一躍有名になりました。
 直径18m、高さ5mの小形の円墳で、古墳時代終末期の7世紀末から8世紀初めのころの築造と推定されています。東・西・北の3方の壁と天井に壁画が描かれた石室は、凝灰岩製の切石で、幅1ⅿ高さ1.1m、奧行2.6mに築造されています。
 すでに盗掘されてはいましたが、石室内から海獣葡萄鏡や刀飾金具の1部などが出土しました。また半ば腐敗して残っていた漆塗木棺から人骨が出土しましたが、40~60歳の長身の男性で古墳の内容から皇族か、有力な貴族と推測されますが、明らかではありません。
 彩色壁画をもつ古墳としては近幾地方唯一で、しかも壁画はこれまで発見された装飾古墳とはまったく異なる中国思想による墓の祀り方を示し、大陸にしか見られない独特のもので、きわめて重要です。発見の年の6月、国の史跡に、昭和48年4月、特別史跡に指定されました。
 壁画は同49年国宝に、またガラス製小玉・鏡など千点近い出土品も重要文化財に指定されています。
 高松塚を中心に約2.5haが、高松塚史跡公園として整備されています。

高松塚壁画館 明日香村平田
 高松塚古墳に隣接しています。高松塚古墳の内部は密閉されて見学できませんが、ここでは前田青邨らの壁画模写や石槨のレプリカ、副葬品模造などぞ高松塚のすべてが紹介されています。

国宝 高松塚古墳壁画

高松塚古墳 西壁女子群像(レプリカ)※撮影許可を得ています

 横約2.6m、縦約1.1mの東壁・西壁と、横約1m縦約1.1mの北壁と天井に描かれています。男女8人ずつの侍者と侍女、四神のうち青竜・玄武・白虎と星宿(星座)などが色鮮やかに描かれています。日本では最古に属する絵画であり、風俗画としても歴史的価値が高く、また絵画史上珍しく写実的で個性的な絵であり、芸術性もきわめて高いと評価されています。

6 特別史跡 石舞台古墳 明日香村島庄

石舞台古墳

 石舞台古墳は低い丘陵に巨岩を積み上げた、日本でも最大級の横穴式石室をもつ古墳です。1辺50mの基壇をもつ上円下方墳と推定されますが、封土は失われて、巨大な石室が露出しています。また幅8.4mの濠に囲まれていたとされます。

石舞台古墳 石室

 石室は、羨道の長さ11.5m南端の幅2.1m。玄室は長さ7.6m、幅3.5m、高さ4.8m、という規模で、天井は巨大な花崗岩2個からなり、南側の天井石は77トンもあるそうです。玄室内に排水溝があり、7世紀初めごろの築造と推定されています。
 626年に没した蘇我馬子の墓といわれるが確証はありません。この巨大な石の上で狐が女に化けて舞いを見せたという土地の伝説があり、石舞台とよびならわされています。国の特別史跡に指定されています。

解説をする田代会長と会員

7 史跡 飛鳥寺跡(安居院) 明日香村飛鳥

飛鳥寺跡(安居院)

 伝板蓋宮跡の約500m北にある。蘇我馬子の発願により588年に起工され、596年に竣工したと伝わります。
 近年の発掘調査によって、塔を中心に東金堂・西金堂・中金堂を配し、それらを回廊で囲み、その外に講堂を置くという、他の類例のない独特の伽藍配置で寺域は約2万9千㎡、法隆寺の3倍近い規模をもつものであることが明らかになりました。当時、天皇家をしのぐ実力と、朝鮮半島の最新の技術を導入して寺の造営にあたった蘇我氏の権勢を物語る寺院です。

「飛鳥大仏」銅造釈迦如来坐像(国重文) ※撮影許可を得ています

 606年に安置されたのが、有名な「飛鳥大仏」銅造釈迦如来坐像(国重文)で像高2.75m止利仏師の作といわれ、鋳造仏としてはわが国最古の像です。しかし後補が著しく、顔面・左目・右手人差指が、わずかに造立当時のものになります。 また皇極天皇の時代中臣鎌足と中大兄皇子が、この寺の境内での蹴鞠の会にことより、蘇我氏の討減を図った故事は有名です。
 平城遷都の際、寺も平城京に移り、平城京の寺を元興寺、飛鳥の当寺は本元興寺とよばれましたが、建久7年(1196)に雷火で焼失し、現在は江戸時代にできた安居院が建ちます。

【主要参考文献】
村田修三『日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山 』1980年 新人物往来社
人文社観光と旅編集部『郷土資料辞典 奈良県』1990年 人文社
山川均・浦上史樹ほか『週刊日本の城』ディエゴスティーニジャパン 
大和郡山市公式ホームページ

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