見学会レポート 「諏訪湖周辺の史跡・文化財と霧ヶ峰の夏の花をたずねて」

日時:令和6年7月21日(日)
諏訪大社上社・神長官守矢資料館・湖上の浮き城『高島城』・霧ケ烽高原の夏の花・霧ヶ峰自然保護センター
案内:田代道彌・石井正義ほか会員有志

 7月21日(日)に行いました見学会の模様と講師の田代道彌の解説を当日の見学会資料を基に紹介します。

1.諏訪湖

諏訪湖

 

 諏訪湖は北を霧ケ峰火山、南は赤石山脈に囲まれた諏訪盆地の中央部にある断層湖で、湖面標高759m、湖面積は15.5㎢、周囲18㎞余りに及びます。湖岸線は単調でほぼ楕円形を成し、東岸は諏訪市、北岸は下諏訪町、西岸は岡谷市の行政区域に属し、南西岸の釜口水門から天竜川が流れ込んでいます。
 湖底は北西岸に注ぐ砥川、南東岸の上川・宮川などの、堆積作用による泥土におおわれて、沃野を貫流してくるこれらの諸河川が運ぶ豊富な栄養物質のため、わが国有数の富栄養湖となっています。最大深度6.8mで平均深度は4.6m。透明度は1m内外と低く、不純物が多い湖です。主要水産物はコイ・フナ・ウナギ・シジミ及び、大正4年霞ヶ浦から移殖したワカサギなどで、岡谷市の湊区付近ではワカサギが養殖されています。

 湖面は1月上句から11月下旬まで平均55日間凍結し、とくに厳冬のころ厚く結氷するとき氷が割れる「御神渡り(おみわたり)」の現象が知られます。八剣(やつるぎ)神社には応永4年(1357)から今日までの、御神渡りの記録があり、この間の気候変化を示す貴重な資科となっています。
 御神渡りの方向は諏訪大社上社から下社へとほぼ一定しており、上社の男神が下社の女神のもとへ通った「通路」と語られてきました。
 その方向をたずねて豊凶を占う御神渡拝観式が、今も行われています。また、冬はワカサギの穴釣りが名物になっています。日本のスケート発祥地でもあり、明治35年わが国で初めてスケートが紹介されて以来、上質の天然リンクとして親しまれてきました。
 また、北東岸は湖畔公園になり、市営遊園地・プール・美術館・間欠泉・カリン並木などがあって、上諏訪温泉を訪れる観光客でにぎわいます。湖上遊覧船もここから発着します。
市内大和の湖岸から200m沖、水深1.7ⅿの諏訪湖中に、石器時代中期の遺跡、曽根底遺跡があります。推定面積約3万3千㎡で、湖底遺跡としてはわが国最大。諏訪湖の誕生を推察するうえで貴重なものです。

2.諏訪大社上社本宮 ~諏訪大社に遺る古代信仰の残映~

諏訪大社上社鳥居

 縄文・弥生時代の狩猟中心の採集経済が、やがて大規模な水田稲作時代を経て、次には仏教の渡来による殺生戒の普及など、このように日本人の信仰にも大きな変転がつづいてきました。久しい間日本人は四足獣を狩ることも食用にすることがなかったのもその一例です。ところか諏訪信仰圏に於いては、諏訪神社は狩猟時代には縄文時代以来の狩猟神、農耕時代になると農耕神の神格を発揮し、武家社会には軍神として尊崇されてきました。その結果諏訪大社は北海道から鹿児島県まで日本全国に1万社をこえる分社をかぞえ、その総本社として知られています。
 たとえば中世四足獣を捕殺せざるを得ない地域やその社会では、諏訪大社の発行する神札『鹿食免』(かじきめん)を所持することによって、その殺生戒を避けることが可能とされていました。猟師たちが捕獲した鹿や猪を解体する際に唱えた呪文は「業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果」(安居院『神道集』など)などで、意味は「畜生は野山で死んでは再び畜生に生まれるのが輪廻というものですが、ただし畜生でも野たれ死にではなく人間の役にたって死んだときには、輪廻を外れて人間に転生できる」というものです。
 

参拝所にて

 諏訪大社の社殿は市内中洲にある上社本宮と茅野市宮川の上社前宮、下諏訪町の下社秋宮・同春宮の四宮に分かれ、諏訪湖をはさんで南東方に上社、西岸に下社と1㎞余り隔てています。上社本宮は健御名方命(たけみなかたのみこと)、上社前宮と下社の春・秋両宮には八坂刀売命(やさかとめのみこと)が祀られています。創建年代は明らかではなく、古くから広く信仰を集めて、神階は正一位、延喜式では名神大社に列し、信濃国一ノ宮になりました。
 太古は狩猟時代の影響を残して狩猟神、農耕時代に入ると農耕神として神格を有し、平安時代末期以後武士が台頭すると武神として降盛を極め、日本第一大軍神とも称せられました。延暦年間(782~806)には坂上田村麻呂、鎌倉時代には将軍家からの神領寄進が伝えられ、近世には徳川将軍家から上社に1000石、下社に500石の社領が寄せられました。
 また甲斐の武田氏の崇敬も厚く、戦勝を祈願して「諏訪法性南宮上下大明神」の幟を作り、合戦の際には本陣に立てたといい、霧ヶ峰や原村の御射山(あきやま)祭には全国から多数の武将が参加し、流鏑馬・競馬・鷹狩りなど多彩な奉納武芸が催されたと伝わります。
 今もなお諏訪の祖神・氏神として信仰を集めていますが、本宮と春・秋両宮は本殿にあたる建物をもたないことでも知られています。本宮は拝殿のうしろに宮山と称する小高いところがあるだけで春秋両宮も拝殿背後に宝殿2棟が並び立ち、その後方に神木があるのみとなっています。

布橋

 上社の幣拝殿・四脚門など6棟と、下社の幣拝殿・神楽殿7棟は江戸中期から後期の建築でいずれも国の重要文化財に指定されています。また、上社の境内の樹林は県の天然記念物となっています。
例祭では、上社本宮から前宮へ神輿の渡御が行われる4月15日の「御頭祭」や、下社の秋宮から春宮へみこしが渡る「遷座祭」(2月1日)、春宮から秋山への「御舟祭り」(8月1日)などがあり、御舟祭りは昔諏訪湖が下社のすぐ下まであったとき、舟でみこしを渡した名残とも、祭神が湖上で舟遊びをしたのを形たどったともいい、数百人の青年が、青柴で造った舟を引きます。

本一御柱


 また7年に1度、申と寅の年の4・5月に行われるな「御柱祭」は、山から切り出した長さ約16ⅿのモミの木の柱16本を、上・下両社四宮の四隅に立て替える神事でその豪快さて知られ、当日には、県内外からの参拝客で非常ににぎわいます。
 社宝として太刀2口・銅印のほか古文書が多数保存されており、上社宝物殿に収蔵されている。社号は明治時代以来諏訪神社と称したが、昭和23年諏訪大社と旧号に復した。なお戦前までは官幣大社に列していました。

3.神長官守矢資料館 ~獣を狩る信仰の数々を観る~

御頭祭(酉の祭)展示

 諏訪大社は古くから神道としては諏訪氏や守矢氏が宮司をつとめ、仏教としては近くの法華寺や仏法紹隆寺が別当寺として存在していました。神社には祭神のほかに本地仏が祀られ、これに奉仕する僧侶は別当、それが常駐する寺院を別当寺と言うわけです。
 このうち守矢家は古くは諏訪大社の宮司職にあって中世以来の古文書を多く伝えているかたわら、動物の供犠の古態を剥製によって再現するなど、古代信仰の解説のコーナーは特に注意されます。現在でも諏訪大社本宮から前宮に神霊が渡御する「御頭祭」には、鹿の頭や生きた雉子が神前に奉納されています。以前は伊那谷など信仰圏の隅々の村から鹿の頭は送り継ぎに寄進され、毎年75頭の頭部が神前に並んだと言います。
  諏訪大社の祭神がこの地に祀られる以前、諏訪一帯の地主神は洩矢神で、それに奉仕した一族は神長官と呼ばれ守矢氏がそれで、大祝とは別に幕末まで大社の祭祀に従事してきました。 諏訪信仰は①龍蛇信仰、②水神信仰、③狩猟信仰、④風神信仰など古代の自然崇拝の遺習を濃厚に伝えていて注目されますが、さらに鎌倉時代以降は軍神としても篤く信仰されました。『諏訪大明神絵詞』には神体の龍蛇が雲に乗って西に向かうのを人々が見た後に、蒙古が襲来し、その時軍船を祭神がことごとく沈没せしめたといいます。水神としては諏訪湖はじめこれを水源とする天龍川水系のすなわち伊那谷一帯の農耕を司り、風神としては秋の収穫を前にして風害防除を祈って、持統天皇5年(691)諏訪へ勅使が派遣されています。 

 狩猟信仰は祭神が龍蛇であることから祭祀には多量の供犠を必要とし、折から普及しはじめた仏教の「殺生戒」に対立しました。すべての四足獣はこれを捕殺すべからず、ただ野兎のみは鳥に認めてこの限りでなく、1羽2羽と算えて例外としていました。
 そのため飼養していた牛馬はもちろん狐狸までこれを殺さなかったのですが、ただ毛皮や内蔵を武器や薬用として補給せざるをえず、これに従事する時の回向文として『諏訪の勘文」が存在しました。「業尽有情 雖放不生 故宿人天(身)同証 仏果」(安居院『神道』) 猟師も鹿や猪を解体するときにこれを唱えて回向しました。そしてさらに諏訪大社においても神札『鹿食免』を発行して殺生戒の罪を回避することを可能にしていましいました。また中世には大宮司以下多数の神官や勢子らが山に籠もり、連日狩りをしてその都度獲物を神に捧げていました。御射山(みさやま)神事がこれで、その時大宮司の忌み籠もる建物を穂屋(ほや)と呼んでいました。竜蛇である祭神の神格からも、このように多数の生け贄の供進を必要としました。

神長官守矢氏邸(神長官守矢史料館)内にある御頭御射宮司総社

 そして祭神の子孫は大祝(おおはふり)としてその家系は続き、また神社に仕えた洩矢神の子孫の守矢氏以下、権祝、副祝などの直系の家々には古い伝統や記録が伝えられています。特に神長官『守矢文書』は量質ともに日本屈指を誇るものです。
 このように諏訪信仰は住民の祖神として精神的な結合が強く、時の為政者もこれを無視できなかったのです。たとえば武田信玄は戦争で衰えた諏訪大社の祭祀を復活するために『上下宮祭祀再興次第』という長文の指令書を捧げて自らその保証をしています。また江戸幕府ももと大祝家の子孫で藩主でもあった諏訪氏を高島藩主に戻して、さらに大社へは朱印1500石を寄進するなど、人心の収攬に勤めました。

4.高島城 ~諏訪湖の浮き城~

諏訪市指定史跡 続日本百名城 №130

高島城

【立地】
 高島城は上川・宮川が諏訪湖に流れ込む河口、デルタ地帯の先端にあった桑原浜浮嶋(高島)を利用して築城した水城です。かつての城郭は湖畔に面しており、諏訪湖北岸から眺めると城の石垣を諏訪湖の波が洗い、浮かんでいるように見えるため「浮城」とも呼ばれ、特異な城郭景観を見せています。
 狭長な山沿いの湖畔に城下町として上諏訪宿が造られ、その中を甲州道中が通ります。城下町から高島城までの道のりは、現在のJR上諏訪駅付近にあった登城口(柳口)から縄手と呼ばれる一本道が続くという特異な形態を持ちます。また城郭も狭小な地形から四つの曲輪を一直線上に結ぶ連郭式の形態を持ちます。
 
【歴史】
 諏訪の領主として君臨した諏訪氏は桓武平氏とも清和源氏ともいわれた武士でありながら、出雲神話に登場する建御名方神(たけみなかたのかみ)の子孫を自称しており、諏訪神社上社の大祝(おおほうり:神官の最高位)を代々司っていました。
 鎌倉時代では御家人として、後に得宗家の御内人(家臣)となり、南北朝時代には南朝に属し、その後室町幕府の奉公衆を務めました。
また、諏訪神社上社と下社は対立し、諏訪湖畔の東岸の丘陵地に造られた茶臼山城は上社勢力の下社に対抗する備えと考えられます。さらに上社諏訪家は惣領家と大祝家と別れ対立していました。
文明15年(1483)、大祝家諏訪継満は下社の金刺興春、高遠継宗らと組んで反乱を起こし、惣領家の諏訪政満とその嫡男宮若丸を殺害しました。(文明の内訌)金刺興春は茶臼山城を占領しますが、惣領家の反撃にあい討死しました。僅か10歳で惣領家の家督を継いだ次男の諏訪頼満は成長して大祝家を滅ぼし、さらに継宗の子頼継と金刺興春の子昌春を降伏させ諏訪地方を統一しました。
 しかし、頼満の孫頼重の代で諏訪氏は甲斐の武田信玄に攻め滅ぼされてしまいました。信玄は代官として長坂光堅を諏訪に送りました。その後、頼重の娘と信玄の間に産まれた武田勝頼が諏訪家を継ぎましたが、天正10年(1582)に織田信長に勝頼は滅ぼされ、その旧領は信長の家臣河尻秀隆に与えられました。秀隆は弓削重蔵を茶臼山城の代官としましたが、間もなく本能寺の変が起こり、秀隆はこれに乗じた武田氏旧臣に殺されました。
領主を失った武田旧領は徳川・北条・上杉の三氏による草刈り場となり、紆余曲折後、諏訪領は徳川家康が領有しました。(天正壬午の乱)家康は頼重の従弟諏訪頼忠に諏訪領を与え頼忠は新たに金子城を築いて本拠としました。
 
 天正18年(1590)豊臣秀吉は徳川家康に関八州を与え、諏訪頼忠は家康に従い関東に移りました。代わりに諏訪領は小田原攻めに戦功のあった日根野高吉に与えられました。諏訪に移った高吉は新城の築城を模索し、高島に目をつけました。高吉は高島の村を現在の小和田の地に移転させ、金子城を解体しその部材を運ばせるなどして築城したと伝わります。築城は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)までの期間が費やされたと考えられます。
 
 日根野高吉は慶長5年(1600)に死去し、跡を吉明が継ぎますが、同年起った関ヶ原の合戦後に下野国に転封になりました。代わりに諏訪領二万七千石は上野国総社にいた諏訪頼忠の子頼水に与えられ、11年ぶりに諏訪氏が諏訪に復帰しました。以後、明治維新を迎えるまで諏訪家が諏訪を治めました。
 高島藩は幕府の罪人を預かる役割を何度か務めており、徳川家康の六男の松平忠輝や吉良義周(よしちか)らが南之丸で過ごしました。
 
 明治4年(1871)の廃藩置県を経て明治8年(1875)には天守など建物が破却されました。翌九年には公園として本丸が開放されましたが、他は市街地化してしまいました。現在本丸だけが高島公園として市民の憩いの場となっています。

高島城天守を高島公園から撮影

【遺構・建物】
 城の構成は本丸に天守閣と藩主居館を置き、二の丸に米蔵、金蔵、藩校、馬場があり、三の丸には勘定所や家老屋敷などが配置されていました。
現在は高島公園には昭和45年(1970)に復興した天守、本丸門(冠木門)、隅櫓一基など鉄筋コンクリート造で再建された建物がみられます。北と東側には本丸の石垣や内堀がよく残り、冠木門前のケヤキの老樹の並木も風情をとどめています。しかし二の丸、三の丸の範囲はすでに市街地に変化しています。
 
 三重の天守は古写真を基に外観が復元され、下見板張りのほか最上階には切妻出窓に華頭窓を施すなど豪華絢爛な桃山時代の意匠が施されています。また、屋根には杮葺きが拭かれるといった城郭建築としては非常に珍しい屋根を持ち人目を惹きました。天守台天端には雨水を防ぐための腰屋根が施されていましたが、現在は漆喰で塗り固められています。また、天守台脇には小天守の石垣がみられます。小天守の形状は不明です。
 
 隅櫓はかつて本丸に隅櫓、持方月櫓、富士見櫓と三基の二重櫓があり、何れも多門櫓によって連結されていました。冠木門は現在二階櫓門となっていますが、江戸時代の絵図では楼門または高麗門として描かれています。本丸南東には搦手門として土戸門跡が見られます。冠木門を通れない身分の低い者が上薪、采、大根など上納するための通用門として使われました。

5.霧ケ峰自然保護センター ~霧ケ峰高原に夏の花を訪ねる~ 

霧ヶ峰 富士見台 ニッコウキスゲ群生地

 諏訪市域北部の鷲ケ峰(1798ⅿ)から車山(1925ⅿ)の間、諏訪盆地の背後に広がる標高1600~1800mの高原で、八ヶ岳中信高原国定公園となっています。ススキや高山植物におおわれた小丘陵が起伏し、その間には八島ケ池・鎌ヶ池などの高層湿原があって、尾瀬とともに湿原植物の宝庫としても知られています。

ヨツバヒヨドリ

 車山の南西腹、強清水(こわしみず)は中腹から吹き上げる風か集合するので、そのためグライダーの練習地として知られてきましたが、高原避暑・観光地として着目されはじめたのは、詩人長尾宏也氏がヒュッテ霧ケ峰を建てた昭和の初めごろになります。
 今では、白樺湖から和田峠を経て、扉峠へいたる有料道路ビーナスラインが高原北部を東西に走ります。
 また車山山項からは、北アルプス・中央アルプス・八ヶ岳・富士山・浅間連峰など、360度の展望が楽しめます。宿泊施設は強清水のほか、車山の西肩や沢渡にヒュッテ・ロッジがあり、夏期には強清水付近に県営、八島高原にJRのキャンプ村も開設されています。
 また強清水には、霧ケ峰の動植物・地質・気象・歴史を紹介している施設「霧ケ峰自然保護センター」があります。 

ハクサンフウロ

霧ヶ峰でみかけた貴重な野鳥  ノビタキ

ノビタキ

 北海道では平地の草原、本州では高原で繁殖します。中国南部などの越冬地へ移動を始める秋頃には本州以南の平地でも見られます。草の茂みで昆虫やクモを探して食べる鳥です。オスは草原の目立つ草や低木のてっぺんでさえずります。オスの羽毛は冬になるとメスに似た色になり、夏が近づくと黒色に戻ります。 また、オスは草のてっぺんでさえずります。
  かつて神奈川では丹沢の不動の峰あたりにのみ生息しており、現在神奈川県では絶滅しているかもしれない貴重な野鳥です。

【文】田代道彌、山本篤志(高島城) 
【主要参考文献】
『日本城郭大系 第8巻 長野・山梨 』 1980年 新人物往来社
中島透 『甲信越の名城を歩く 長野編』 2018年 吉川弘文館
『長野県の地名 日本歴史地名大系 20』 1979年 平凡社
『ふるさと文化遺産 郷土資料事典20 長野県』 1997年 人文社
小宮輝之監修『見わけがすぐつく 野鳥図鑑』 2020年 成美堂出版
【協力・画像提供】田部賢一(会員)

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