田崎英明『間隙を思考する』

田崎英明さんより新著『間隙を思考する――グリッチ・コミュニズムの方へ』をご恵投いただく。『福音と世界』の連載の書籍化だ。さっそく「はじめに」を読む。

わたしもレコード愛好者の一人ではあるが、グリッチという言葉にはなじみがなかった。レコードは盤に刻まれた音溝を針でトレースすることによって、音楽記録を再生する。レコード再生では、音溝に付着した小さなほこりや針の追従能力の限界によってパチパチというノイズが発生することがある。そういうノイズのことをグリッチというらしい。オノマトペの一種であろうか。レコード再生の理想で言えば、グリッチ・ノイズは再生に混入する夾雑物であり、その排除こそが理想の実現となる。しかし、音が空気を介して伝わる物の振動である以上、その再生において夾雑物の完全な排除は不可能だ。

「理念的なものは物質と物質、モノとモノが触れ合うところにあたかも亡霊のように出現するのだが、その亡霊には常に物質的な影が付き纏う。それが、グリッチ・ノイズである。」それは「何らかの潜勢態の現勢化でもないし、予め存在していた形相の質料化でもない。剥き出しの物質性だ。」

グリッチ・ノイズへの注目は、唯物論的であると同時に、たぶんにエルンスト・ブロッホ的である。あるいは、「原子の逸れ」を語るエピクロス的である。

こうした著者の思考は例えばアフェクトに向かう。アフェクトは哲学史において「情動」としてとらえられ、カントの言う「物自体による触発」もまた「情動」と考えられる。「自我」と「物」、あるいは主観と客観を予め設定するなら、アフェクトはその両者の間に生ずる出来事であり、「物」が「自我」に働きかけ(触発し)、「自我」が表出するものと考えられよう。しかし、アフェクトはその都度どのように発現するものかは定まらないグリッチ性をはらんでいる。著者は、アフェクトを「自我」と「物」とのたんなる間隙ではなく、固有の場としてとらえ、アフェクトを、より解放させるのか、より従属させるのか、という基準で測ろうとする。こうして著者は、アフェクトを介してよりわれわれを従属させようとする動向を見すえながら、同じアフェクトという場に、われわれをより解放する方向を見ようとするのである。

より息苦しさを増すかに見えるこの世界のなかで、著者の視線はそれとは異なる道筋を見つめている。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784753103928

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