誘うよりも誘われる派
私はあまり友達を遊びに誘わない。かわりに、お誘いいただいて自分の予定が空いていたら大体お供する。誘うよりも誘われる派である。
子供の頃は母から「いつも誘われてばかりで、自分からは誘わないのか?」と心配されたのが、結婚してからはめっきり言われなくなった。一家の主人が、わざわざ家を空ける用事なんて少ないに越したことない。
それでも、妻から小言を言われる程度には家を空ける。それだけよくお誘いを頂いている。自己分析するに、私が誘われる派でいられる理由として、おおまかに3つが挙げられる。
1. 独りでも楽しく過ごせる
独りカラオケ、独り立ち飲み、独り焼肉などなど。だいたいの「独り〇〇」は抵抗なくやってきた。
もちろん、一緒に行く人がいた方が楽しみを分かち合えることは知っている。だけどもし、相手が楽しめていなかったら気を遣う。そのくせ気の利いたフォローも出来ないので、誘うことが億劫になる。
様々なパターンをおしなべてメリットデメリットを天秤にかけ、誘うよりも独りで遊ぶ方が楽しさの期待値は高いと判断している。
独りには独りの良さがある。行き当たりばったりのトラブルも独りなら気を遣わない。気兼ねなく挑戦ができる。その体験談を発信することも、お誘いいただく布石になっている(後述)。
2. 友達から誘ってもらう機会に恵まれている
よく誘っていただけるので、自分から誘う機会が少ない。自分で言うのもなんだけど、私は誘われやすい。ここ最近の旅行記やイベントレポの大半は、お誘いいただいたもの。
自分の機嫌を自分でとれることは大きい。初挑戦の行き先で段取りが悪くても、私は常に楽しくしていられる。私自身「本当は○○が良かった…」という不満がないので、誘われてついて行くことに私自身が満足している。
保守的な人からは「独り〇〇」の投稿を見て「今度は連れて行ってよ」オファーをいただく。「独り〇〇」で下調べ済なので、スマートに案内できる。ご一緒した相手は私がいることで「独り〇〇」を避けられる。
撮影、道案内、運転、パート演奏、人数合わせなど、求められた役割をそこそこ器用にこなす。一家に一台よろしく、とりあえずメンバーに入れておけば何かの役に立つ。
私にとっても、お誘いいただくと「相手が本当に行きたいと思っているのか?」を気にしなくて済む。デメリットがなくなるので、独りよりもメリットが大きい。
3. ゆる募で事足りている
直接誰かに連絡して「○○に行こうぜ!」ということはなくても、不特定多数に「○○に興味がある」と発信して、コメント欄やメッセージのやり取りで「では行きましょう!」と話がまとまるパターンも多い。
「ゆる募」がキッカケで、しばらく会えていなかった友達と集まることが出来ているので、誘わずして誘うのと同じ恩恵が得られている。
私は比較的よくSNS発信する。「何のためにそんなに頑張るの?」と聞かれても、呼吸するのと同じで頑張っている自覚はない。
強いて理由を挙げるならば、誰かの関心に引っかかって、またお会いするためかもしれない。
自分の楽しさ追求がパズルのようにはまる
誘われる派の目線でこのnoteを書いている。逆に、誘う派には誘う派なりの持論があるだろう。
普遍的な共通項として、自分の楽しさ追及に帰着するだろう。楽しさには幅があり、独りで楽しめる人もいれば、一緒を好む人もいる。ストライクゾーンの広さや、相手にどれだけ気を遣うかも人それぞれ異なる。
相手と楽しみを分かち合う場合は、自分が楽しいだけでは完結しない。それでも、相手の喜びが自分の喜びになるなら、結局は自分の楽しさに帰着する。
どちらかが無理して合わせても、長続きはしない。この意味で、相手を意識しながらも、自分が自然体のままで楽しい時間を過ごす利己追求になる。
そんな利己追及がパズルのようにハマって、一緒に遊びに行くことができると思うと、神秘さとともに有難い気持ちになる。