古都の朝と「確かなもの」
教会の鐘が鳴っている。調子の取りにくいリズムで鳴っている。
日本人の私でも宗派や和尚それぞれに違うお経のリズムや声の抑揚が違うことに覚える違和感と似ている。ブルガリアの中央に位置する古都・プロブディフに来て二日目の朝。旅に出てちょうど1週間が経っている。
この街を訪れた目的は、このプロブディフそのものを観光したかったわけではなく、ここから約100kmほど北に向かったところにある共産主義時代の建造物を見に行くための拠点にしたかったから。けれどもあらかじめ予約していなかったレンタカーが数日前と前日とでは値段が倍以上違うことや、前日夜中のギリギリまで粘って探した公共の交通手段を照らし合わせてみても、早朝のバスに乗ればいけないことななかったが、かといってこのバスに間に合わうほどの早起きはできそうにないという理由から、この目的地への小旅行はキャンセルを余技なくされた。
とはいえ、昨日はこの旅にでて依頼一番多く酒を飲んだのにも関わらず、相変わらず8時頃に目が覚めてしまった。
いや、本当のことを言うと6時半には目が覚めていた。どんなに疲れていても酒を飲んでいても、仕事を始める時間に起きてしまう自分がいる。
悲しいことだ。
でもここにきて、これは至極普通のことなのかもしれないと安心感さえ覚えた。なぜなら、こうした安宿に泊まる旅人、バックパッカーというのは大抵がやはり20代、それも前半の若い子達で、遊びも仕事も生活の中のリズムとして体に染み付いているものは一切なく、見るもの出会うもの、体験することが、たとえ日常のうちであってもすべてが彼らにとって真新しいものであるからだ。大学の授業然り、パーティ然り。彼らにとっては退屈に感じることでさえも、私を含む、その時代を通り過ぎてしまった世代とは感じ方・受け取り方が全く違うはずだ。すべてがキラキラしていて、何の心配もいらない、”光り輝く毎日”のほかならない。ちょうど、恋をしている時と同じようなことかもしれない。当事者として渦中にいる間は他のことが頭に入らないほど夢中になり一喜一憂するものだけれど、結ばれる結果かあるいは報われない結果が訪れたとしても、過ぎ去ってしまえばその情熱は遥か彼方に消え去り、もう二度と味わえないような錯覚に陥るほどの、ちょうどそんなギャップのようなものに似ている。
しかしそんな旅人たちのなかには多からず、私のような20代後半、30代、50代以降のセミリタイヤや完全にリタイヤした人種もいる。そして彼らこそ、疲れや前日のスケジュール、周囲の環境の変化に関係なく自分の生活リズムや習慣といったものをほどほどにキープし旅を続けている。こういった人たちのおかげで、自分自身に感じていた、その他大勢の若者たちとの間にあったズレを埋めることができた。
だから、若い頃のように早起きの制限があるかないかに関わらず無尽蔵に眠りにつけた自分と違い、早起きの制限が一切ない状況にも関わらず無駄に早起きしてしまう今の自分にそう落胆することはないのだと、ここにきて自分を納得させることができた。一週間目にしては十分な会得である。
話を戻すが、もっとも、私自身、バスに間に合うよう早起きするつもりすらもなかったのかもしれない。
本音を言えば、その早朝のバスになんとしてもつかまってでも、どうしても行きたい、この目で見てみたいという気持ち半分、そもそもその目的地に自分は本当に行きたいのか?なぜどうしても見たいのか?それほどまでしてここを訪れるだけの確かな理由と意義を持ち合わせているのか?という疑いにまで立ち返る自分が残りの半分を占めていたのだ。
この感情は、奇しくも日本から持ち込んでいた数冊の本の中で、たまたま今読み進めている作品にでてきた内容ときわめてリンクしている。
作中にでてくるその一節がこうだ。
親同士が決めた結婚相手に対し、何の疑いもなくその相手を受け入れ、いずれその相手と結婚するつもりだという高校3年生の男の子、達也は、それを自分自身による選択でないからこそ確かなものだとし、だからこそ信じられると知り合いの年長者に話す。
「本当に確かなものが、自分の人生の中でせめて一つでいいから欲しいし、ほんとうに確かなものは、今僕たちが生きているとか、いずれ僕たちが必ず死んでしまうことと同じように、自分で決めたり選んだりできないからこそ、自分のちからではどうにもならないものだからこそ、ほんとうに確かなものなんだと思います」
「天災で死ぬのってそんなに悪いことでしょうか?僕は人の死に方としてはちっとも悪くないと思うし、病気や事故で死ぬのと同じことだと思う。というより、自分の死に自分の関与する部分がない、つまりは、責任がないという意味では、天災で死ぬのって例えば、自動車事故やストレスが原因の大方の病気なんかよりはずっと自然でまともな死に方なんじゃないかって気がします」
これに対して年長者である30代半ばの男が返す。
「そんなのはただの理屈だよ。きみの言う確かさなんて俺に言わせれば風船みたいな空っぽの確かさだな。そもそも誰も選択しない、誰も決めないことなんてこの世界のどこにもないよ。俺が生まれたことだって俺の親父とおふくろが選択したことだし、俺がいずれ死ぬことだって、俺が生きることを何十年も選択し続けた結果、初めて生まれる必然でしかない。選択のない世界には生も死もあったもんじゃないよ。そして俺は、思い切り生きて、そして死んで、また別の俺生まれ変わってこの世界に戻ってくる。どこにも選択がないのではなく、すべては選択されることによって存在するんだ。」
対し青年はこうも返す。
「そうでしょうか。僕はそう思わないんです。僕も明日香も何も選択しないんです。選択しないことでしか僕たちはほんとうに受け入れることはできないんだと思います。」
30代の男は、このやり取りを振り返り、後日恋人にこの青年とのやり取りをこう話す。
「頭は良さそうだけど、あいつには形がない。ぐにゃぐにゃしてて、優しさや恥じらいや自負心ばかり発達させてしまっている。いまの若い連中の典型だよ。そういう感性を注ぎ込んで固める肝心要の器がない。要するにあいつにはフォルムがないんだ。フォルムのない人間は、なかなか生きていくのはしんどいよ。俺がいつも言っているけど、すべてはまず形から始まるんだ。その形を決めて、そこからその形に何を入れていくのか、何を中身にしていくのかを選び取らないと。ところが最近の連中ときたら、生き甲斐だとか意味だとか、そんなことばっか考えてる。仕事だって、始めてもいないうちから、これが俺の本当のやりたいことだろうか、とか、俺はこんな仕事を一生やっていいんだろうかとか悩んでばかりいる。仕事なんてとりあえず何をやってもいい。まずやってみて、そして始めて、その仕事が自分にとってどんな意義があるのかないのかわかる。そういうことは、昔の人間は十五、十六にもなればみんな知ってたんだ。それが大人になるっていうことだったんだ。そういうフォルムの芯になる基本的なパワーが、今の若い連中には欠けちまってる。達也もその一人だよ。恵まれた環境で育って人一倍頭がいいだけに」
この一連の流れに、ハッとさせられた。自分は、この30代の男と、高校生の達也の、そのどちらの言い分も理解できるが、さしあたって今の自分はそのどちら側でもないことに気づいてしまったのだ。
それは今朝なんとしてでもバスに乗り、本来行くつもりだった目的地に計画通り向かうこと(=選択しない選択)もできたが、その選択そのものに疑問をもち結果として行かなかった(=選択した)こともそうだし、ここ数年抱いていた生きること、選択すること、ひいては、ポリシーやこだわりについても当てはまるのだ。
そもそも何のための旅なのか。旅と呼んでいる以上、もちろん、日常があり、仕事があり、家があり、故郷がある。家族もいる。友達も、お気に入りの店もある。これらすべてを私は選択の結果だと思っていた。それはこの作中に登場する30代の男が言うように、自分と誰かの選択の連続によってのみつくられてきたものだと信じてやまなかったからである。
しかしその一方で、表面に出したことも口に出して誰かと共有したことなどもちろんないが、心も体も大人になっているはずの私の心の奥底には、じつは昔から、達也のような感情が、視点があった。
自分の責任のない部分が自分の人生に影響し、それがたとえ死であったり事故であったりしても、それはそれで、老衰や病気による死と何ら変わりない普遍的なものだと。なにかにすがっていようとこだわっていようと―――”選択”したつもりであっても――時期やタイミングの違いはあれど、とかく「死」について言えば、いずれ訪れるものだから。
だから、といっては変だけど、私は人の死で泣いたことがない。
故人にもう会えなくなるという事実に困惑はしても、それが「悲しい」という感情なのかすらわからなくなるときがある。
そのことで時に周囲からは冷たいと思われることがあっても、自分自身すら明日死なない保証などどこにもないのに、と思ってしまうのだ。
だから、だからこそ、私は選択してきた。まさにこの30代の男の言うように、まずやってみて、ダメなら方向を変えてみる、というもの。
いままでもそうしてきたし、私の場合は迷うよりまず行動が先に立っていた。自分にはそのほうが簡単だったからだ。
しかしこの方法だと、当然、責任の所在は常にすべて、自分にある。どちらかというと私は、この達也のいう「選択しない選択」を避けてきただけなのかもしれない。そこに意志がないと怖かったのかもしれない。達也の言うように、確かなもの、確固たるものというのは、実は、自分の意志が不在なままの部分にこそ当てはまるのかもしれない。
では、私にとってのこの「確かなもの」とはなんだろう。逆に言えば、私がいままで必死にこだわり、築き、培おうとし、守りぬきたかったものとは何だったのだろう?
果たして今朝バスに乗らなかったことは正解だったのか。この動機の裏にある「せっかくここまできたのに」という気持ちはいついなれば昇華されるのだろうか。されるものなのだろうか。
まだまだ旅は続く。