
ラオス:メコン川と涙
今回の旅で3カ国目となるラオス。そのほぼ中心に位置する古都ルアンプラバーンにいる。
街全体が世界遺産に登録されているほど、歴史的に重要な文化財である古いお寺や家屋が並ぶ街だ。
それらの情報だけではかなり開発され発展しているように聞こえなくもなく、実際にラオスを訪れる外国人観光客のほとんどがここを訪れていると言っても過言ではないほど多くの観光客がいるーーーつまり観光地なのだが、そんな文化的に重要な建造物が立ち並び多くの旅行者が訪れていてもなお静かでゆったりとした時間が流れていることこそ、ここルアンプラバーンの最大の特徴であり魅力ではないかと思う。
さて、そんなルアンプラバーン中心部の北側を流れるメコン川のほとりで今、夕陽を眺めている。夕陽が見たかったからだ。
そしてとても物悲しい。
一人きりで見たかったかといえばうそになる。
誰かと一緒に見たかったかもしれないし、かと言ってこうして一人でも平気だったりする。
何枚か写真をとったりこんな文章を書き連ねたりぼうっとしているうちに、大きな夕陽は沈むよりも先に厚い雲に隠れてしまった。
以前の旅、旅中でも同じような哀しさ、鬱屈した感情を抱いたことはあった。確実にあった。けれど、こんなにもどうしていいかわからない、やり場のない気持ちをたくさん、何度も繰り返し抱いたのはこれが初めてかもしれない。
私ってこんなにセンチメンタルだったっけ。こんなに繊細だったっけ。
日本で暮らす日常の中ではそうだったとしても、いや、実際に気にしなければいけないことの多さ、それらを気にしている自分そのものに自覚はある。でもこと海外を旅行中となると、自分はもっと強い心持ちで常に居たはず。そうしているし、そうでないとサバイブできるわけがない。ここまで続いていない。
それはきっと今回の旅が以前のそれとは比べものにならないレベルの多さで気の合う仲間、素敵な人たちに出会っているからというのも理由の一つとして考えられる。
それだけに私の話す英語では伝えきれないもどかしさや思いの全てを、感情の全てを共有したいと思い、時に必死に伝えることもあった。そうして時に回りくどくも、めちゃくちゃな文法でもわかりあえたとき、特に自分とよく似た性質の相手を見つけた時、喜びは最高潮に達する。
シンプルな出会いであってもだけど、特にそのよろこびがひとしおなのは、そこに高いランダム性がある時だ。
基本的に旅での出会いというのは常に高いランダム性が重なって生まれるもの。
その時その場所を選んだ人たちが偶然集まったことで生まれるひとときのなんと貴重なことだろう。
ことにそのランダム性が異常に高い時は余計である。
今回私が陥った物悲しさは、出会った人々との親和性、ランダム性がどちらも高かったことに起因している。
そのどちらもが高いためにより貴重に思え、より愛おしく、より手放し難いものになってしまった。
そうした出会いは私の心境に大きく影響する。自分が思っていたよりも強く。
なぜなら(というかこれは至極真っ当なことだとも思うけれど)大切な仲間と思える人、人たちと出会うと、離れたくなくなるからだ。
逆にいうと、離れる理由がわからなくなる。
当初の目的、行き先、やりたかったこと、お金の使い道etc…全て後回しにできるほど。
ただひたすらに、単純に、この人たちともっと一緒にいたい。もっと喋りたい。深くわかり合いたい。もっといろんなものを共有したい。
そこで彼らと自分の感情のベクトル、量が一致するのであれば何も問題ない。一緒に計画し、続ければいいだけのこと。悲しいのは、一見彼らもそう思っているように見えても、私ほどに強くは思っていないというところだ。
つまり、いつも私の片思い、一方通行なのだ。
今回の旅がベトナムに来てからかなり変則的になったのはそのせい。
それまでの中国での出会いもプレシャスなものではあった。素敵な人たちだった。
でもこうまではなかった。ベトナムでの出会いが私をこうさせた。
行く予定ではなかったところにも(私の中では)予定外の出費を叩いて行ったし、楽しんだ。
けれど私の英語のせいもあったり、酔い過ぎていたりしたこともあって意見の食い違い、気持ちのすれ違い、勘違い、等々を埋められないまま、修復できないまま過ごしてしまったりなどしたせいで少しずつズレていったのも事実。
そうして、本来の旅程に目を向け一旦は一人になるも、寂しくて、会いたくて仕方なかったりする。
クリスティーナ・アギレラと(名前は忘れたけど)どこかのバンドがFt.した「Say Something」という曲が好きで、ヒットした当時もその後もよく聴いていた。この曲の歌詞に
「Anywhare, I would’ve followed you」=「何処へだってついていったのに」
という部分があるんだけど、本当に離れ難い人と別れなければならない時はいつもこの部分が頭をめぐる。
今回も例に漏れなかった。
ただ、そこで出てくる次なる課題は「私は一体なんのために、どこへ向かっているんだろう」という根底を覆す疑問だ。
そうして旅で出会った素敵な仲間と行動を共にして行き先を変え、パターンやプランを変えることは全く悪いことではないにしても、では本来は、私は本当は何がしたかったのか?旅に何を求めていたのか?となってしまう。
だったら始めからプランなんて作らないで、人に、出会いに、ランダム性にフォーカスしていればよかった?
そうすればこんな感情を抱いた自分にも、予定通りに思い通りにいかなかったことにがっかりすることなんてなかったはずだ。
何が見たかったんだろう。
何をしたかったんだろう。
これまでの私の感覚では、発言や行動といった私自身の行いに問題があることも自覚はある。
なんというか、丸いものを四角くしか見れない、そういう感覚。
笑い飛ばせばいいものをいちいち取り合う。面白おかしい結末にして話せることをつい最初から最後まで真面目に伝えてしまう。
それはほとんどの欧米人が持つ「ひたすら褒める」「なんでも冗談にする」話術とは真逆といってもいい。
もちろん彼らの中には根暗な人もいればおとなしい人もいて千差万別だけれど、それとこれとはまた話が別。
なんでもっとポジティブでいられないんだろう。事実とはいえなんでネガティブなことばっかり口に出してしまうんだろう。もっと単純でシンプルにいられたはずだ。
どうしちゃったんだろうこの頃の私。それともずっとこんなだったのかな..
たとえばそれぞれの国の政治や福祉について語り合っている時。どの国にもいい面悪い面があることを前置きに、お互いがお互いの話に熱心に耳を傾ける。
それは私の主観が邪魔するのか、私の話し方が悪いのか、それとも両方なのかはわからないけれど、私が日本のよさについて語ることは少ない。自殺率や人々の無関心さ、不寛容さ、外交における立ち回りの酷さ、
福祉サービスの破綻など、いつも悪く言ってしまう。もちろんいいところもあるけれど、私が語ると悪さが良さを上回ってしまうのだ。(ネガティブキャンペーンとしてはかなりのネタ量とは言える。)
でもそれは彼らにしても同じで、母国に対するネガティブな思いは皆一様に抱いているし、その暮らしに、文化慣習に嫌気がさして、あるいは、その場所に住んでいること自体に疑問を抱いているから、等々ネガティブな思いを抱いていたからこそ、こうして旅をしているという人だって決して少なくはない。
じゃあ、お互いの国の持つ特徴や悪しき文化、嫌いなところについて語る点は同じだとすれば、どうして私はこんなにもunmotivatedに陥ってしまうのか?それとも彼らの中にも私と似たような気分に陥る者がいるのだろうか?
厚い雲はまだ太陽を隠したままだ。ああ。もうすぐ日が沈む。
自分が自分でない感覚。
自分の頭で感じられず、自分の心のままにできない、動けない、そもそも何がしたいのか分からない。
しぼんだ心を少しでも埋めるために夕陽を見ようとしただけなのに、雲はひたすらに太陽を見せてくれない。
涙が出てきた。
急に自信がなくなって、世界一ちっぽけな存在だと思ってしまう。
自分が嫌いになるとかそういうことでもなく、ただ何をしていても楽しめない。
楽しむことだけが、何かに熱中するだけが全てではないこともわかっている。
だけどどうしてこんなに気分が沈んだままなんだろう。
ただ今日は、ただ夕陽が見たかっただけなのに。
それだけだったのに。
自分の気持ちの行方を勝手に夕陽の動きに委ねたりしていたら、あちらの方はなんということもなくしばらくのうちに顔を出してくれた。
沈む前の本の数秒で、大きくて、鮮やかで、とても綺麗だった。呆気にとられた。
そして単純な私はちょっとだけ元気が出た。