見出し画像

汎用性のない経験値


旅を続けて2ヶ月が経った。
急いでいたつもりはないけれど、たった2ヶ月とは思えないということは自分が思うよりもかなり足早に過ごしてきたんだろう。

前回投稿したラオスは中部の街ルアンプラバーンからメコン川をゆっくりと進むスローボートで遡上し、2日かけてタイ国境へ。ラオスに正直辟易していた私はその日のうちに越境しタイへ。
翌日にはボートから一緒だったドイツ人、日本人の女の子と一緒にタイ北部の街チェンライへと移動。
チェンライではSis!と呼べるほどに意気投合したイスラエル人の女の子とも出会え、ルアンプラバーンで抱いていたやり場のない寂しさは彼らとの濃密な時間の中で簡単に溶けてなくなっていった。それほどに充実した日々を過ごせたと思う。

みんなで和気藹々と楽しい時間を過ごす中、自分の経験値が「他人との関係性の構築すること」において貢献できていないことに気が付いてしまった。というか、本当はずっと前から気づいていた。

どういうことか。

たとえば、日本人からに限ってだけど、よくこんな質問をされる。
「本当に行動力があるよね」「勇気があるよね」「すごい根性、大したもんだ」etc…

日本では褒められると自動的に謙遜しないといけない決まりになっているから(←
「そんなことないですよ」で済ましてきたし、そうして済ましてきた場合がほとんど。というのも、同じ会話を欧米人たちなんかとしてもそうはならなく『女性が一人旅しているだけで驚かれも褒められもしない』ということ。だから結論から言うと全然すごいことでもなんでもない。つまり私が返答している「そんなことないですよ」は大半の”呆れている気持ち”から生み出される「本当にそんな(=大した)ことないですよ」と言う本音の一言でもあるのだ。

それも最近になると本音が強くなり、同じように「行動力がある、ガッツがある」等言われても

「いやぁ…私がやってることなんてお金で買える経験ですよ。やる気さえあれば誰だって同じことができる。どんなところにもいける。それよりも本当にすごいのは、日々の小さな出会いや小さなつながりを大切にコツコツと真面目に生きている人の方です。生まれ育った地域や会社、友人などのコミュニティの中で円滑にコミュニケーションを取り、どんな出会いにおいても長期的な視野で信頼関係や絆を育んでいける、そこらにいる普通の人たちの方がよっぽどすごいです。」

そうすると、既に私という人となりを理解している人ならば「まぁ…それもそうだけど」と納得してくれる。
そうでない人は「どうしてそう思うの?」と続ける。

「さっきも言いましたが、私には甲斐性ってものがないんですよ。何に対しても根気よく向き合えない。飽きるのが先になることもあります。無責任で自分勝手だから、団体行動ができない。だからこんな自分にとって一人でチケットを購入したり移動したり、ラフな計画のもとにあちこち海外旅行することなんて実際何てことないんです。性格に合っているし、むしろその冒険性、ランダム性が飽き性で常に何か足りないと思ってしまう部分を補填してくれるというか。」

そういうと大概の人は黙ってしまう。彼らからの褒め言葉を否定するつもりなどなく心して、ありがたく頂戴する一方で、謙遜の意味も込めて、また正直な気持ちからそう答えると、単純に「私の行動に対して」リアクションしただけだったつもりが呆気にとられてしまうといた図だ。

しかしこれは紛れもない真実でもあった。

私の経験値や経験則によって得られる知識や知恵といったものは、もともと積極的な自分をさらに主体的かつ能動的にさせる。時に恣意的でさえある。仕事においてもそうだし、だいたいのシチュエーションにおいてもそうだ。

たとえば国内外問わず、会議などの場において日本人の静かさ、意見のなさが度々悪目立ちしている。
もともと議論が苦手な民族だということはさておき、上下関係や派閥を気にし、空気を読み、大きなものに巻かれることがもっとも安全な手法とされる。ところがそれが異人種の集まる会議や国際的なカンファレンスにおいてのタブーでもあることを知っている日本人がどれだけいるだろうか。
「右に倣え」「出る杭は打たれる」を幼少期から刷り込まれている我々日本人にとって「下の立場のものが上のものに意見すること自体憚られる」のがまだまだ主とした概念とあって久しい。

ところが私の「(主に旅をしてきた事による)経験値」が良い面で発揮されるのは、先述したような状況において空気を読まず、目上の人の目など気にせず、言いたい放題とにかく意見を出せることだと自負している。

しかし、それが全くといっていいほど貢献されていないのが私が「対人関係」を構築するとき。

私にとってこれほど単純そうで難しいことはない。
心理学で有名なアドラーは「全ての悩みは対人関係である」といっている。
これは「この世の全ての人間の悩みというのは、根本的には全て対人関係に由来する、行き着く」というもので、突き詰めて考えればそうなのだろうし、無論、私以外の全ての人々も対人関係に頭を抱えない人間などいないのだ。

ただ自分の場合『若いうちから一人で色々と《海外に行って》経験しているのだから同世代の一般的な子たちよりも経験豊富で人間的に成熟しているだろう』というバイアスをかけられるが、実際はそうではなく、むしろ周りの人たちがやっているようにできないことの方が多い、ということだ。

長期的な視点で物事を見つめられない。信頼関係を築くのが下手。正しい方法がわからない。
これらは以前から常々省みていたことだけど、今回チェンライで充実した日々を送っていて気づいたのは、対人関係を築く中で最も重要な部分の一つであると言える、

「相手の立場に立って考える」
「相手が必要としている部分を補おうとする、そう試みる」
「自分の主義主張を自分の言い方で伝えるだけでなく、相手の望む言い方、伝え方で共有する」

などという「相手ありきの人間関係」に必要不可欠な「思いやり」や「大げさでない、さりげない気遣い」が圧倒的に足りないのだとわかった。

この時点で

「わからないところがわからない=自分の何がダメなのかわからない」
から、
「わからないところがわかった=自分の何がダメかわかった=自分に何が足りないかわかった」
へと少なくとも進歩はしている。

さて、ここからが重要なセクションだ。改善策が必要となる。

そんなものが簡単に手に入れば誰も苦労しないし、仕事帰りの居酒屋で飲みながら先輩に相談したりしない。

誰かと比べても意味はないし、完璧な人間なんていない。そんなことはわかっている。

だけどなかなかどうして、自分には不足し過ぎていやしないか。
どうやったらこんなにも「思いやり」「優しさ」に欠けた人間性が出来上がるのだろう。

目にまぶしすぎるほどの日差しが通り過ぎていった頃。
ヤンゴンのオフィス街に挟まれたホステル屋外のベンチに腰掛け、帰路を急ぐ人たちを注視するでもなく、暑さでぼうっとした頭と体を夕暮れに馴染ませようとするかのようにただただ、物思いに耽っている。






























いいなと思ったら応援しよう!