さようなら、トビリシ
暮らし。
服、古着でいい。
家、空き家でいい。
車、中古でいい。
0を1にするよりも、まずは-(マイナス)を0にしたい。凹の隙間を埋めるように。
だけど本当に好きな物には課金惜しみたくない。映画音楽はストリーミングで大量消費できるけども、紙の本は半年以上読んでなくて寂しい。芸術にもっと触れたい。物を大切にしたい。マスプロデュースはもう沢山だよ。
どこかで読んだけど、人の人生の大半は「用事」なんだって(小泉進次郎構文みたいになってる、そりゃそうだよね)、はるか昔から。
村に水道をひいたり、子供を迎えに行ったり、ごはんを作ったり、誰かの相談をきいたり。なんでもない用事。その用事と用事の隙間にあったのが作曲だったり、ダンスだったり、絵を描くことだったりしたんだと思う。
日本にいた時はずっと用事用事(仕事)の連続で、隙間に仲間と酒飲むぐらいだったと思う。それはそれでよかった。だけど日本を離れ(旅行目的)、あれよあれよと滞在が長引き、約1年も滞在することになったこのジョージアで、手に余るほどの自由時間だけ大量に抱えた私のこの1年の暮らしはどんなだっただろう。用事は一応ひと通りあった。でも何か創ろう、達成しようと思えばできたはずだったんだよね。たられば言っても仕方ないんだけど、用事そのものやその隙間を楽しむことができるのが丁寧な暮らしなら、自分のは?
多分わたしには、凹の隙間を埋めて一旦表面をフラットにすることはできるの。得意だと思う。足りないものは足して、いらないものは片付けて。
解体屋ですから。それが仕事なんよね
でもクリエイティビティが0。平な所から何かを生み出すことができない。平にすることはもちろん重要だしそうしないと新たな創造の基盤も緩くなる。だけどやる人はどんな状況でも言い訳せずにハングリーさと斜め上の発想をもってきて行動する。ナニかを作ろうとする。私にできないこと。ずっとコンプレックスだった。
例えばこれまで趣味で登山やバイクなど楽しんだ。メインはもちろん旅だけど。どれもこれも運動系で、創作的な趣味、あるいは能力がひとつもない(そういう趣味を持った人が全員創造性ないと言ってるわけではもちろんありません、私の場合に限る)。
だから編み物にしろ動画にしろ、SNS活動でもいい、自作キャラクターを描いたり自分で曲を作ったり、メイクが上手、とかでもいいけど、とにかくそういうちょっとしたものから大きなものまでどこまで物差しを広げても生み出せるものがなく、物凄く無能に思える。
表現者、表現する人ってのは方法がどうであれスゲ〜と思う。今はネット上で個人がどうとでも動ける時代、学習も恋愛もネットでできる。冷静に考えるとどエラいことよね。。
ネットで有名になる、フォロワーがたくさんいるって、どこぞではもはや資産と言われてるほど。大いに同意するよ、私にはそんなクレジットがないから。まあだからといって自分のことをゴミクズと思ってるわけじゃない。昔は思ってたけど。ゴミクズはゴミクズなりに何かと闘ってた時もあったもの。
過去の栄光(そんなものはない、1番輝いてた年齢5歳)にすがりついてるわけでもないけど、少なくとも何か達成したものを金メダルだと思って心のなかに飾っていればいいよね。そんな達成してきた自分はイケてる、って思ってないと。だから悪いけど私はとってもファビュラスでイケてるの。中古品や拾った服()、ボロのアパートに住んでるけど。
ちょっと話が逸れたけど、これだけオンライン個人大出世チャンスみたいな時代において私がやっていたこと、、誰かの声に耳を傾けることや新しい知識を得ることはできてもそこからなにも生み出せない自分への違和感やジレンマを抱えているのだけど、じゃあ「用事」をいちいち楽しむしかないな、と。
働きマンマインド→バックパッカーマインド→ニート主婦マインド、とメンタルを完全に区切る、移行させるほかない位には人格を形どるものに大きな影響のあった一年で、ずっとソワソワ、ドギマギしていたと思う。慌ててミスをして、ずっこけて。さらにその傷や内容を人に見せつけて「ねえ見て!私の人生ガチャガチャでしょ!!」と言ってた/言いたかっただけなのかもしれない気がしてきた。恥。意味不明。
ネガティブなことにフォーカスしがちなんだけど、もっともっと楽しいこと、素敵なことを共有したい。用事を楽しめることができれば、生み出せるもの、創造性がどんなに少なくたってべつに良い気がしてきた。
大きな目標よりも、日々の小さなことにキャッキャしていたい。いちいち喜んだり、まためそめそ泣くかも。年収をあげることよりも、近所の人に使いっ走りにされたい。その代わり私も近所の人を頼るだろうけどね。
そうは言っても、この一年私のほうから一方的にお世話になりっぱなしだったジョージア🇬🇪トビリシでの「ご近所さん」とももうすぐお別れ。実際に関わりが生まれはじめたのは6月の終わり頃だけど、そこから暮らしがみるみる鮮やかになっていった。友達や知り合いも増えて、いろんな所に一緒に行って、食べて、飲んで、泣いたり怒ったり笑ったり、いろんなことを勉強させてもらいました。
多分私にとって人生で初めて関わった「日本人コミュニティ」だったのも印象深い理由のひとつだし、加えてこのコロナ禍、ロックダウンにおいてはみんなが協力体制というか、見えない所で助け合おうとしているのを強く感じて、それぞれの人の良さや優しさ、経験豊富さにずーっと感動してたかなぁ。
あと優秀な人/面白い人が多すぎて、余裕で気圧される。もう全員が全員、そんな素敵な人たちだったからトビリシが面白かったのかもね。
みんなはどうかわからないけど、私は既に寂しいよ。
見ず知らずの、いい大人が、小学生みたいに単純なことを楽しんで、すぐ会える距離に住んでて、世間話したり本音で言い合ったりできる環境が/人たちがこの時期この場所に集ったことがどれだけ貴重だったかを噛み締めてる。。
これからの暮らしがどうなるかわからない。どこに住むかだって今だにわからないし、ここでの生活のように楽しいことばかりじゃないかも知れないけど、ここトビリシでの出逢いは一生だな〜って思ってる(重い)。みなさん本当にありがとう!!
というわけで、うんたらかんたら大袈裟なこと言ってるけど、あともう少し、このやかましい女に会ってくれたら嬉しかです。
ちなみに未開封の薬とか乾物、食器/観葉植物🪴など欲しい人がいたらいつでも奪い取りに来てください。