共謀罪と優しさ
先に話題になったテロ等準備罪(共謀罪)。私の周りでそれが議論されることがほぼ皆無すぎること、そもそもこれ以外のことにも論じようという人が少なくて、もはや政治に関心のあるまともな人はネットにしか存在しない事実に辟易してしまったのと、ロンドン攻撃されすぎてただただ悲しい。というか生理的・自然発生的な現象・理由以外で死人がでることが本当に悲しい。ニュースみたくない、ではなくて現実として起こっていることが。
政治への関心について。興味がないのではなく或いは目の前の生活に必死で本当は「(今の、明日の自分達の生活に直接関係がないことを考える)余裕がない」が正解かもしれないけれど、じゃあ事が起きてから、自分達のいる「末端」に影響が出始めて初めて文句を言う、愚痴るじゃ何の意味もないってことに気付くべきで、(あり得ない強行採決で)共謀罪成立した今ではそれすらできない可能性も高いことを知らなさすぎる。立場に関係なくその国に生きるという意識が他の先進国じゃあり得ないレベル(こういう引き合いの出し方は批判の矛先となることも承知の上)。
これを見てぶっちゃけ何がどーいうことなのか知らないから教えて!という人はokグーグル!の出番です
要は個人の段階で監視対象になるってことです。一般人には関係ないとかいうけど、じゃあ何を以ってして「一般人」なのか。極端なこと言うとチャゲアスの「今から一緒にこれから一緒に殴りに行こうか」はアウト(の可能性大いにアリ)。未遂罪、予備罪やら(根本的な取締り対象は異なるけど)「まだ現時点で発生していない犯罪を取り締まる法律」はたくさんあるのに新しく作りたいのはオリンピック(という銭が稼げる運動会)のためでもテロ予防のためでもなく監視したいんだよ。何も文句言わないおとなしい国民がいれば統治余裕じゃね?完璧じゃね?と目論んでいるのが今の(戦前も)日本。その政治おかしい!と思ってもミクロレベルで自由に声もあげられなくなって、すぐに反政府体制側だと認められてしまうのがこれからの日本。という事実に反して詭弁を弄しているのが今の与党で、その人たちを選んだのは私たち。
世界からは日本=現役世代の技術の高さこそ一級品だと認知されているもののそれ以外は学力の低さ、公共福祉の脆弱さ、グローバリゼーションの圧倒的遅れ、歴史に学べないアホさが集結したダメ国家でしかない。
トランプが大統領になったことを今だ信じられずにいる国外在住アメリカ人と同じで、国外在住日本人も客観視してそう思ってる人も多いし、彼らはもはや驚いてもない。
一見こういうのって「自分達とは関係ないお偉いさんたちが考えるべきこと」と思いがちだけど実は個人、地域社会、どの組織内でも個人レベルで啓発出来得る。
例えば最近ツイッターで話題になっている議論に「実は(主に弱者に)優しくない日本人」というのがある。島国であること(地理的にも民族的にも)で和を重んじてきた国民性というのはデカいけど、基本的に「右に倣え」の精神が根強いから、(主に批判的に)意見しない、(仕事、資産の運用方法、恋人の性別、容姿や服装、余暇の過ごし方まで)皆と同じことしてれば安全(=批判されないで済む)、などなど。和を重んじる=同調圧力みたいな悪しき習慣とも言えるよね。だから自分と全然違う人を攻撃の対象にしたいという意識が自然と生まれてしまう。それはお金持ちであり、生活保護費受給者であり、妊婦であり、幼児を連れた母親であり、シングルマザーであり、主夫であり、未婚の若者であり、芸能人であり、在日外国人であり、トランスジェンダーであり、車椅子に乗った人であり、一見健康そうだけれど精神的疾患を抱えた人でもある。人種的な多様性に乏しく、”差別” なんて遠い外国の宗教間、人種間において多く存在するように思えがちだけど、これも立派な差別。
そういう社会的、立場的マイノリティ(であるはずはないのにどうもこの国では依然としてマイノリティと限られる)の人は多様化の象徴でもあるのだけど、多様化とは真逆をいく日本ではそういう人たちがしばしばなんらかのトラブルにおいて批判の対象となることがある。その現場っていうのは結構多いもので、実際そこに遭遇したりすることがあってもこれに異論を呈する人やそういう場面を見かけることってほぼ無いと言っていい。起因としてこれは倫理観・正義感云々よりも「和を乱したくないが故に」の方が合ってると思う。個人的な攻撃はもちろん、先輩がやってきた毎年恒例のやつだから踏襲するとか、皆よりも秀でたスキルがあるのに同じ学習内容で単一に測るとか、日本企業の会議が無駄に長いとか上司より先に帰っちゃダメとか飲み会参加の是非もそうだよね。正直言ってバカみたい。
地域間、組織間(家庭も立派な組織やね)、企業間でこうした悪しき風習はできる限り破壊すべきだと思う。間違っていると思ったら声にだすべきで、弱い人にはもっと優しくなるべき。
そういう「言われたこと・決められたことを鵜呑みにする」「空気読む」習慣を変えていくことが当たり前になれば、政治や行政のあり方にも真剣に向き合えるし、それこそがまさにデモクラシーそのものではないのかな、など。無論、和を重んじること自体は悪いことじゃないし、それも(が)文化。保守派が多い世代からイマドキ世代にかけても根強く残っていて「他人に迷惑をかけず」「みんな仲良く」の精神のもと丸く収まることが多いのも事実なんだけど、果たしてその精神が当たり前だった時代のそれと、めくるめく変わった生活文化・社会慣習・思想の今のものとが混在してる現代において「昔のやり方にただ倣うこと」に違和感を感じる人は少なくないはずで、変わってもいいんじゃない?押し付けないでよ?と思うわけです。
因みに、こうして意見を発信するとき「日本は」「海外では」「他の先進国では」とかいうまるでアナリスト気取りの俯瞰野郎的な表現(私の場合自分の主観・視野に率直でいたいので間違っても「欧米では」「海外では」みたいなデカすぎる主語は使わないけど)をすると「話している規模が大きすぎる」「見聞広いアピール」「比較対象少なすぎ」「俺には関係ない(←一番酷い)」系のリプは必ずと言っていいほど存在するんだけど、そうして大きな分母で考えた上でないと見えない事もあるし、かといって私自身がグッロ〜バルな人材とかでは間違ってもない。けど、知っていると知らないとでは歴然の差があって、民主主義と自由を手放さない限り知る権利は誰にでもあるんだよ。情報が手元にないんだったらそこから知ろうとするか、しないかで決断できるかできないか、自分の考えを反映できるかできないかにも繋がるので。かといってイマドキ地上波や紙媒体からの情報だけくまなく目を通しているだけではむしろマイナスなので、ソースから見極める必要アリだけど。
で、その情報についても。北朝鮮とアメリカには今それぞれ世界の嫌われ者ナンバー1と2がいるんだけど、彼らに対して各国民ができることの根本的な違いは情報量。民主主義の有無。奪われたモノと根強いものと、知る権利の有無。さて、権利を与えられているにも関わらず放棄してる国民は、日本は、イマどっちで、どーなるんでしょうかね。
息をしているだけか、生きているのか?
愛の反対は無関心。
Where is the love?
※この手の話をすると「あ~やっぱりイタいなーこいつ」と思う人も少なからずいるでしょうけど、思考停止した傍観者でいるくらいならイタくていいです。もともとかなりイタいし。