指定席(リザーブド・シート)第三話
「今逃げなければ殺される」それしか頭になかった。
同時刻、男は1号車へと、女は16号車へと全く反対方向に向かって懸命に走っていた。二人とも何も目に入らず、頭の中は真っ白になり、人をかきわけ或いは突き飛ばし、ただひたすらに前へ前へと進んでいった。
女、すなわち瑠里子はその途中でへたばり、デッキの洗面所で一休みしようと、すばやくカーテンを引いて中に隠れた。すれ違った若い女が面食らった風に彼女を見たが、それにさえ気付かずに、ぜえぜえと荒い息を吐き大粒の汗を滝のように流しながら、いくらなんでももう平気だろうと旅行カバンを下に降ろして洗面台の鏡の前に向かった。とたん視覚による激しいショックで再び倒れそうになった。鏡に映った自分の姿が信じがたいものだったからだ。
「これが私・・?」
借り物衣装のような派手な花柄のワンピースを着て、どろどろの厚化粧をしたでぶな中年の女が、ロングヘアを振り乱し全身汗だくになり、ぽかんと口を開けて突っ立っている。
いつもいつも地味だと他人に言われ続けてきたから、大阪出張という栄えある晴舞台に発奮して精一杯めかし込んできたつもりだった。昨日、仕事帰りに寄った美容院で斬新な髪型にしてくれとは確かに言った。美容師の女性は赤いヘアマニキュアをしてパーマをかけてくれた。似合ってますという彼女の言葉にすっかり安心していたのに、今見ると、もじゃもじゃの赤毛にしか見えないではないか。帰宅した後は疲労のあまり朝までぐっすりだった。結局寝過ごしてしまい、駅まで向かうタクシーの中で化粧をしたのが失敗だった。
真っ白に塗りたくった肌。左右ちぐはぐに描かれた眉。使い慣れない筆のアイライナーが目の回りを大幅にはみ出し、おまけに汗でマスカラやシャドウが流れ、お岩さんも負けそうな仕上がりになり、ぶあつい唇をますます強調した口紅の鮮やかな赤が目茶苦茶になった化粧のとどめを刺していた。
瑠里子は鏡に見入ったまま、しばし呆然としてその場に立ち尽くした。悪夢を見ているようで、ふらふら足元がよろめき、男の記憶もどこかに消え失せてしまっていた。
その頃、男は1号車と2号車の間のデッキで、まわりをうかがいながら、ひどく興奮した様子で友人に携帯電話をかけていた。
「・・・って訳でさ、いやあ恐ろしかったのって何のって、ありゃあ妖怪か山んばだよ、ひとりでニタニタ思い出し笑いしてさ、絶対フツーじゃない。どっかの子供があの女を見たとたん、すげえ顔して大泣きしたんだからな・・え?何だよオ~人のこと言えないってか?俺様はいいんだって、一応これでもレディースランジェリーのファッションリーダーだからよ。しっかし包丁を見たときゃ小便ちびりそうになったぜ、マジで殺されるかと思ったもんな・・ったく思い出しただけで身震いしちまう、まさかここまで追ってこないだろうな、ブルルル・・」
新幹線は、指定席二つ空席のまま走り続け、ようやく新大阪に着こうとしていた。