夏の足音 第二話
第二話
蝉の声が鳴り止まない、八月の終わりだった。ひと月程の帰省から戻った僕はあいかわらず単調な毎日を過ごし、その日もバイトをすませてから<弁天湯>へ出かけた。朝からじめじめと蒸し暑く、Tシャツの背中や脇の下が汗ではりついている。アパートを出て商店街を通り、あと少しで銭湯という所でふいに足が止まった。古い民家が軒をつらねる路地の先から、白いワンピース姿の少女が軽やかな足取りでこちらにやってくる。デニム地の布袋を肩から下げ、清楚で、どこか凛とした印象の娘だ。
あの少女だ、たぶん間違いない・・僕の想像を裏付けするかのように、十歳前後の子供が彼女の両脇に寄り添っていた。おそらく彼女の弟と妹であろう、二人とも無邪気で可愛らしい顔をしている。彼らは僕の事など全く眼中にない様子で通り過ぎて行き、そのまま銭湯の中に姿を消した。十五、六歳くらいだろうか。僕は今見たばかりの少女の顔や姿を思い浮かべていた。きゃしゃな体つきで、色白で涼しげな瞳をして、秘かに僕が抱いていたイメージのままの娘だった。
少しして僕も、銭湯の暖簾をくぐった。番台のおかみさんは話に夢中で、小銭を渡してもううわの空で横を向いたきりだった。
「そう・・おかあさん、そんなに悪いの・・・」
重苦しい口調でそう言って、おかみさんは溜め息をついた。女湯の誰かと話しこんでいるようだった。
「あんたも、たいへんよねえ。学校はあるし家のこともしなきゃいけないし、おかあさん良くなればいいのにねえ」
「おとうちゃんも最近お酒ばかり飲んでて」
女湯の脱衣所から聞こえてくる鈴の音色に似た、その声に僕はどきりとした。
「借金あるのにこのうえ手術代の工面なんか無理だって辛そうに言うの」
声の主はさっきの少女だ。
「なんとかしてあげたいけど、あたしらも火の車でね。親戚の人とかに相談できないもんかね」
「ううん、大丈夫。おばちゃん心配してくれてありがとう」
二人の会話がとぎれ、おかみさんは番台の傍らにある小型テレビに視線を移した。脱衣カゴにそそくさと服を脱ぎ捨て、僕は浴場にはいった。タイルの壁を隔てた女湯にいるはずの少女のことが気になってならなかった。彼女の母親は病気なのだ。手術しなければいけないのに金がなくて困っているのだ。
僕はたぶん、その時すでに少女に恋をしてしまっていたのだろう。言葉一つかわしたこともないのに、なんとか力になりたいと本気で願ったのだった。アパートに帰ったあとも思案しつづけ、ようやく僕は決心がついた。今まで貯めた小遣いやバイトの金を彼女に手渡そうと。自分にとくに使い道はないし、もしかしたら、それをきっかけに少女と親しくなれるかもしれないという期待もあった。
数日後、僕は鞄をかかえて<弁天湯>の前で待っていた。封筒に金を用意していた。少女と弟妹がやってくる前から電柱の陰にずっと立っている。だが少女が出てきた時、僕は彼女のつややかな洗い髪やサンダル履きの白い素足に見惚れ、とっさには声をかけられなかった。彼らの後ろ姿にはっと我に返り、
「すみません」
と急いであとを追う。少女と弟妹はきょとんとした顔で振り向く。
「こ、この金・・使ってください」
僕は緊張のあまりどもっていた。
「銭湯で、こ・・困っているって聞いて力になりたくて」
少女は驚いた様子で、差し出された封筒と僕の顔を交互に見つめていた。が、やがて首を小さく左右に振り、無言のまま寂しげに微笑んだ。そして僕に丁寧にお辞儀をして、弟妹の手をひき、ゆっくりと僕から去って行った。彼らの足音がしだいに遠ざかり、夕闇の向こうに消えていくのを、僕は茫然とただ見送ることしかできなかった。
それが少女に会ったさいごだった。もう二十年も昔のことだ。
彼らの母親が急死したという噂を銭湯で耳にしたけれど、あとのことはわからない。幸せを祈るほか、僕は何もしてやれなかった。羞恥と無力さに打ちのめされた淡い恋。純粋に好きになった白い花のような少女。
それらのすべては、あの夏のあの宵に、静かな足音をたてて僕の前から立ち去って行ったのだった。