完璧な夜
なんだか、街を歩くと風が俺にだけ吹きつけてるように感じる。
雨上がりの風は、大気中の水分をシャーベット状にしている。衣服の隙間から、染み入るのだ。そして、心にまで臆病風を吹かしてくる。甲州街道を、乱反射するライトをぼうと目に入れながら歩く俺に、「お前はどこに行っても孤独なんだよ」と叩きつけてくる。
本当に孤独になってしまった。良かれと思ってやったことが全部裏目に出た。雰囲気を醸し出して、壁にもたれかかったまま、しらけた笑いをしていれば、全てのものが効率よく手に入ったかもしれないのに。俺が誰でもないままに。
俺の歩く逆方向に流れる車の群れが、いく先を案じている。誰にでも愛されるということは、誰からも愛されないということなのかもしれない。そしてその逆ももちろんありうる。「お前の方向は破滅かもよ」とつぶやく。そしてその声は、齢30手前の俺にとって聞き飽きた声でもある。しかし、その声が聞こえるということは、どうで死ぬ身の一踊りだと思っている俺の人生論的なもの、男らしい屹立した感じの精神にまだどこか信じきれていないところがあって、何かに縋りたい、誰かに愛してほしい、抱きしめてほしいという部分がある証左なのかもしれない。
*
歌がある。歌がいいのは、言葉や意味がリズムやメロディーに乗って、ドロドロに溶け合ってもうええじゃないか、そんなことはとなるところだと思う。町田康『告白』で、葛城兄弟に古墳の中に連れられた熊太郎が、兄弟にお前歌えやとカツアゲまがいにおちょくられ河内音頭を絶唱し、殺されるか殺されないかの瀬戸際で、でも歌うとったらなんかたのしくなるシーンがある。だから、俺は、甲州街道を歩きながら、歌をつぶやく。誰かの何かのタイトルもしらない歌を。声は車の音にかき消される。だから誰かとすれ違っても気にしない。どうせ聞こえてないから。聞こえていたとしても、彼が彼女が急性アルコール中毒で病院に運ばれて、危篤状態に陥った時に走馬灯の中の一部で出てくるくらいだろう。そして言うだろう。「なんで今おまえやねん」と。
目を閉じると、思い出したくもないことが目に浮かぶから、目をできるだけ見開いて歩く。油断すると思い出したくもない思念の渦に巻き込まれるから。そういう時は、街がとてもフラットに映る。
歩道上にキャベツが転がっている。それがなぜどこから来たのか、考える余裕が今俺にはない。俺に余裕があるなら、流れ着いた謎のキャベツに思いを馳せ、産地や誰が落としたのか、主婦なのか、主夫なのか、独身中年男性なんだろうか、トラックなんだろうか、パンクスなんだろうか、ヒップホッパーなんだろうか?今困ってるのだろうか?いつもなら、それを想像するだけで、家まで着けるのに、今日はそこまでトぶことができない。キャベツはキャベツだった。特に意味なんかなかった。
コンビニの光に当てられ、後光がさしてるかのように偶然の演出が施されたキャベツを地蔵のように拝むか拝まないか悩んでから、結局拝まず通り過ぎる。近くで見ると、キャベツには濡れた砂や青い着色料的なものが付着していた。神聖な存在では断じてなかった。やはりキャベツはキャベツだった。コンビニとキャベツを過ぎ、調布駅周辺の盛場についた。
*
物語がある。物語のいいところとはなんなのだろうか?俺はいまいちわかっていない。が、俺は物語をいつも欲している。思うに俺は、その快楽は、後出しじゃんけんのようなものだと思う。過去になった断片をつなぎ合わせてみたら、実は大ごとだったり、実は大したことなかったりする。その距離感が快楽に変わってくる。粘土を初めて触った幼稚園児が作ったぐにゃぐにゃの何かが、確かな存在として浮かび上がる。あるいは、死にかけの老人の黄色い小便が。そしてそれは死の不可能性も暗示する。未来がなくなるということは同時に過去も喪うということだ。物語とは、後出しじゃんけんを続けること、あの時本当はパーを出しておけば良かったと思うこと、そしてその先のありえなかった過去を捏造することだ。この文章も含めて。
物語は、都合よく使える。キャベツにも使える。そこには気をつけなければいけない。あなたとは誰ですか?に一言で答える人間には気をつけた方がよい。モジモジしている方がよっぽどいい。誰が何を生み出すなんてなぜわかるのだろう?そして、それが俺を苛立たせ、疲弊させている理由でもある。
調布駅は半覚醒の目をしていた。真夜中にI phoneの画面を見て、ブルーライトで当てられた目のようだった。夜を引き伸ばすだけ引き伸ばしたい、明日をできるだけ遅らせたいと考えているかのようだった。本当はずっと起きていたいのだ。だが、徹夜をして翌日を乗り越えられる体力もない。バスは停まってなかった。飯屋のおやじが店じまいをしていた。ストリートミュージシャンが、今はしんどいけど必ず明日はいい日になる的な趣旨の歌を歌っていた。今の俺にピッタリだ。花粉症の薬の副作用でしか、俺は多分眠らさせてもらえない。
スーパーの姉ちゃんは、無愛想で良かった。野菜売り場で玉ねぎを買う際、なぜかビニール袋が傘用の細長いものしか置いていなかった。俺が引っ張るとニョーンと伸びてきた。生のまま入れた玉ねぎと一緒に、俺はビニール袋もカゴに入れた。
レジには、大学生くらいの、茶色い髪を業務的に黒いゴムで縛っている、何を欲望しているのかわからない目をした太った姉ちゃんがいた。「いらっしゃいませ」の声も業務的でボソボソしていた。
「あの、これ多分間違えて置いてたんですけど」
と俺は関西訛りのイントネーションで、傘用のビニール袋を差し出した。姉ちゃんは。「ああ」とだけ言って回収した。無言で野菜や肉を入れる正方形のビニール袋を取り出し玉ねぎを入れた。全てが業務的だった。仕事とはかくあるべきだった。彼女は何からも支配されていなかった。今の俺にピッタリだ。
俺は、京王多摩川への坂を下る。
*
優劣というものがある。そこにこだわるやつがいる。
金が欲しいのだろうか?美しい女性が欲しいのだろうか?はたまた、果てのない欲望をどこまでも満たし続けたいのだろうか?とにかく、俺には理解ができない。なぜなら、それは全てにおいて他人を支配し続けないといけないからだ。メイウェザーのボクシングのように。そして、メイウェザーはボクシングしか取り柄がないからこそ美しいのに。
俺はもうすでに降りている。現に坂を下っている。
小さな画面や大きな画面は、可能性を映し出して、田舎者にあなたはどこまでもいけるんだと嘘を吐く。確かに、俺はどこまでも行ける。だが、それはカメラやマイクでは観測できないだろう。
安っぽい欲望に浸ってるがよい。そこに群がる共犯者どもも、それはそれで幸せなのかもしれない。さみしさを感受する才能に長けた娘がさみしがるから、そこで世界のさみしさの全ては生まれているのに。我々は彼女に感謝するべきだ。重要な資源だ。卓越した技能だ。俺の冷たい風が当たったごときで、萎えしょぼくれるような仮初のさみしさとは明らかに異質の驚異的なものだ。分け与えてくれているぐらい余りに余った才能だ。負けたって悔いはない。初めから勝ちはない勝負だ。俺は坂を下っていく。
どこにでもあるようなビルが、どこにでもあるような広告の光を発して、どこにでもいるようなつまらない俺が歩く。花粉症で喉がやられてしまった。もう歌えないかもしれないとよぎる。ゴッホゴホと咳き込む。花粉症は、風邪とは違って飯を食って寝ればなんとかなるものではない。政府は富士山と同じ大きさの空気清浄機を作るべきだ。大気は汚染されているのかもしれない。その汚染に体が反応することは、正常に生きている証拠なのかもしれない。使えない筋肉が肥大したやつを、杉が過大に植え付けられた山を見て俺は思い出す。肥大した不安、その裏返しの暴力。
誤解がないように書いておくが、俺の人生経験的にボディービルダーはいいやつが多い。彼らは彼らで物語を生きていた。毎朝同じコーヒーを飲んでいる俺の代わりに、タンパク質を摂取していた。仔細で謙虚なルーティーンを、今か今かと待ち続ける世界の終わりを、彼らは筋肉で表現していた。俺が歌い、物を書くのと同じだ。彼らは俺よりはるかに芸術家だった。
通りのビルは、覚醒と眠りのコントラストで、実は暗がりにあるしみったれた家の表札の方が目に入ったりする。美しい寝顔。ピントをそこに合わせる。広告代理店どもはその効果について名称をつけるべきだ。そしたら、あらゆる世界の街から光が消え去る。空に星が満ちる。名前のない路地裏の野良猫の目に光量を与える。人々は眠る。生産性が増す。眠ることができるというのは、明日に体を預ける信頼があるということ。恋人たちがこそこそ愛し合うのを、どうせ月しかみていない。
ただ、街はどこまで行っても街だった。区画整理された歪さを保っていた。俺はそれを内面化しながら歩く。あるものはあるもので仕方ない。目に入るものは目に入れるしかない。生きてるものは死ぬまで生きていくしかない。
俺は、コンビニに寄ってテキトーに物色し、市が指定しているゴミ袋のみを買う。他に買う価値がないからではない。俺の体に入れるのが恐れ多い、素晴らしい製品ばかりだったから。
街に無数にあるコンビニのひとつから俺は出て、俺はいつものマンションの前についた。
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キッチンがある。フライパンがある。洗い残しの食器がある。どこにも繋がってないスピーカー、CD、読みかけのブコウスキーの短編集、その下に敷かれた難しげな哲学書、タッパー、レンジ、ケトル、爪切り、おでんの素、ブルーハーツのポスター、部屋の真ん中に鎮座するシーツがよれよれの布団、雑多なもの置き場と化した机がある。多分、悪い部屋だなと思うは、それぞれがそれぞれで独立しており、なんの絡み合いもない。俺が教師になったらすぐさま学級崩壊になるだろう。アコースティックギターを弾く。今日は声がしゃがれて出ない。音すらも絡み合わない。
俺は、いつも通りインスタントラーメンをフライパンに入れ、お湯を注ぎ、さっき買った玉ねぎを切ってぶち込む、卵もぶち込む、ちょっとカレー粉を入れテキトーに煮込む。
煮立つ間、換気扇の下で煙草を吸いながら、シュンと染み込むのを感じる。空腹の時、ニコチンは染みやすいように体ができている。体の浸透圧が、脳に影響している。
食べれるということは、まだ俺は大丈夫だということだ。支配されていない証拠だ。ガソリンを溜める中古車。まだ、走れるから、まだ使える。ガタは、愛嬌になりえる。車を運転するのは一人だ。自分の何倍ものある車を。
*
異性の名前をつぶやくがやはり嘘くさい言葉だった。さみしさを生産する娘、奥行きのないライト、甲州街道は月につながる道だったらよいのに。後出しジャンケンは、あとどれくらいできるだろう。禁じ手はあとどれくらいすればいいのだろう。
気分は、乱降下して、それに飽き飽きしたくらいに、俺は布団に入る。体を預ける。何に対して?多分、時間に対して。人類はすでにタイムマシーンを開発していた。それは眠りだった。
モノクロの天井は、俺に何も啓示しない。ただ、それがいい。天井は天井だ。
俺は俺だった。意味なんかなかった。風の小隊が窓に打ち付けて、俺に会いたがっていた。さみしさは、自由にどこまでもいけることと裏腹だと教えるつもりだった。
眠るしかなかった。物語も歌もなかった。ここには、無いものだらけだった。
〈了〉
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