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アジカン「ファンクラブ」をもう一度。
ASIAN KUNG-FU GENERATION(以下、アジカン)史上、最も暗く内向的なアルバムと巷では言われる3rdアルバム「ファンクラブ」を今一度味わおうと思う。
全体的な感想
「暗くて内向的」というレビューは、半分は正しいと思う。心の機微のうち、暗い側面をかなり綿密に描き切った作品だと思う。しかし、自意識に引きこもっては作れない作品でもある。情報化した消費社会への警鐘、鈍化した人々の心から湧き出る生の実感。自分の殻から顔を出して、世の中に目を向けていないと気づけない、言葉が飛び出してきている。ショッピングモールに散りばめられたアフォーダンスに従って彷徨っている、資本主義社会のゾンビであるところの我々。レコメンド文化が発展し、もはや自分の頭でものを考えていないと言われる2024年の今も鋭く刺さる。暗い内面よりも、むしろこっちこそアルバムを貫くコンセプトではないかと思ってしまう。
一言で言うならば「夢とリアル」。
至る所で「夢」という言葉が使われているのが印象的だ。その多義的な意味も生かされ、個人の目標としての「夢」、一般化された理想としての「夢」、寝ているときに見る「夢」、それらが重層的に広がって、作品に奥行きをもたらしている。
「リアル」については、液晶や電子に対置される物理的な実態としての「リアル」、傷や痛みという感覚の「リアル」、他の人からの借り物ではなく自分の本意であるという「リアル」が、塗り重ねられている。
情報化、というよりもサイバー下・バーチャル化がますます進む現代の我々への警鐘として、まだまだ新鮮に響く。ライブやフェスの勃興、グランピングやソロキャンプなど「リアル」を感じられる趣味の流行など、アンチ・バーチャルな潮流とも会いまった部分を読み取れる。ジャケットイラストと同様に、全体的にモノクロの彩度の低い世界観だからこそ、まれに出てくる色彩の描写が逆にビビッドに浮き上がり、突き刺さってくるのも印象的だった。
彼らは心・思い・フィーリングこそ、嘘偽りのないオリジナルのものであり、それを(今は何かに繋がらなくても)大切に持っておこうと主張しているように私には思えた。理屈抜きで、直感だけで、野生で生きてみるのはとても大切なことだと、痛感する。機械に飲み込まれないように。社会人として忙殺される2024年の私も、コンピューターの弾き出す最適値から精一杯はみ出してやろうと思う。
ここからは1曲ごとに感想を述べていく。
1.暗号のワルツ
暗号のような、咀嚼しなければ伝わらない言葉。そのひねくれ方は、照れ臭さ、そっぽを向いてしまいたいスレた心、ある種の逃げやずるさ、謎解きゲームに興じる幼稚っぽさ。平易に分かられたくない、自分の(見せかけの)深淵さをマウンティングしたい、でもその結果だれにもわかられず孤独を感じる。いつのまにか、だれもいなくなった。作中主体は、ひとりでワルツを踊り続ける。そんな自分に嫌気がさす。
どうしてワルツなんだろう。ヨーロッパの貴族のきらびやかな光景が思い浮かぶ。「会議は踊る、されど進まず」と言う言葉がある。ナポレオンが引っ掻き回した後のヨーロッパをどうするかを話し合う会議を開いたが、利害が衝突して進展はなく、舞踏会でいたずらに時間を過ごす各国代表のことを皮肉った風刺である。また、形式や伝統を重んじる、享楽的なスタンスへの批判も感じられる。
昔のヨーロッパに遡らずとも、今日のSNSでよく見る光景だ。時は経ち、令和の世の中になっても、鋭く刺さる。
2.ワールドアパート
Aメロ前半は、情報化で加速する社会を歌う。後半は自分の体から乖離していくさまを歌う。「ぼくの両手にはこれだけだよ」。ヒューマンスケールを超えるあれこれ(携帯電話によって、深夜のクライアントからの連絡にも応答しなくちゃいけなくなったとか)への警鐘、そして、もはやそうした世界観に太刀打ちできない個人の無力感にも聞こえる。あくまで革命は「心の中」でだけ起こる。六畳の中で。
そこで、イメージだ。後藤さんは想像力、イマジンの重要性を繰り返し訴えている通りだ。遠くのテロも日本の一人暮らしの自分には関係がない。しかし麻痺したままではいけない。作中主体は痛みを想像して「わかる」。しかしわかるためには目を塞いで、この現実から自分を遮断して、意識だけ現場に飛ばさねばならない。矛盾。
革命とはなんなのだろう。辞書の定義を総合すると、急激かつ根本的な変化が社会構造などステディなものに深刻な影響をもたらすこと、と言える。作中主体は、六畳のアパートにとどまるかぎり、平和な暮らしを送ることができる。主体の周辺の現実に革命は起きていない。そのズレに対する危機感、手元を離れたものに対する恐怖が想像へと向かわせる。しかしその想像も自分の手元の現実=君にとどまる。両手に載せきれない世界の拡張と加速は実際のことであり、自分の無力感も本当であり、想像力さえ自分の周辺しか飛べないのも事実であることを「わかった」うえで、そうした遥かなものに対峙した時でさえ、なんとか実感を持って関係していこう、そっぽ向いているのはもうクールではない、そうした大きな諦めと小さな決意の歌なのか。
3.ブラックアウト
抗いがたく大好きな曲である(カラオケでもよく歌わせてもらっている)。安直な感想を言えば、まずサビが2つもあって、なんて豪華なんだ、と思わずにはいられない。
イントロのギターのリフが、船に揺られているようで心地よい。徐々にドラムが刻み始めて、四つ打ちに。そのビートの裏に例のリフが絡み合っている。気持ちよすぎる。
悲しみ、無力感、そこはかとない焦燥感。通奏低音として作品を貫く。だけど、それだけじゃない。ビルがぶっつぶれるようなエクストリームな事件が起きずとも、そこにいるだけで擦り減るようなキリキリとする切迫感がある。
Aメロはアナログな心象風景と近未来的な現象の対比で進む。 サビ1はそうした相対する二つの間の落差で感覚が鈍る日々の中でも、「自分の生の感覚、実感というものを忘れないで」と願われる。
私が胸を撃ち抜かれたのは、サビ2の歌詞「今ともしびがここで静かに消えるから 君が確かめて」。死(に相当するもの)の場面に立ち会うように作中主体は親愛なるものに言われる。それはテロのような大事件ではなく、主体の手のひらの上、手の届く現実の範囲内で静かに消える(「ワールドアパート」と比較)。実感してしまうことの恐れ、逆にエクストリームな苦痛を伴うということ。生の実感が逆照射される。それに対して作中主体は無力であり、それを「弱さと青さ」と呼ぶ。「青さ」。若さゆえのたじろぎという免罪符と捉えるか、成熟への願いと捉えるか。そうした瞬間に世界は主体と乖離してにじんでゆく。弱い痛みを繰り返して、「青さ」を乗り越えて行く。もし「今ともしびが静かに消えるから 君が確かめて」と身近な人に言われたら、あなたにはなにができる?
4.桜草
何も出来事が起きてない曲、個人的ナンバーワン。しかし、これこそ現代のリアルだ。指先だけで物を言って、何もしない人々に。
なんとなく塞ぎ込んで憂鬱な作中主体が、外の世界の眩しさに圧倒されつつも憧れ、少しずつ踏み出そうとしている。欠損した自身の何かを補おうとする。だけどもうまくいかなくて…。「傷つくことはなかったけど心が腐ったよ」。精神的な痛みや抑うつ気分にも理由が求められる、窮屈な世界。あいまいさや直感を嫌う現代世界。ギチギチの、メトロノーム的な曲調が、私たちの首を絞める。
ところで、精神的に追い詰められたときに名を呼べる「君」が、誰しも人々の心に存在するのか。たとえ結ばれた存在でなくても、遠い憧れの人、昔の偉人、なんであれ支柱となりうる存在が。それすら失ってしまった時、ひとは……。
5.路地裏のうさぎ
メルヘンな題名の割に物騒な歌詞だなあという第一印象。これは「おおきいおともだちのための絵本」だと思っている。
作中主体のいる現実は、じめじめした薄暗い路地裏の世界。それに対して星と月の輝く深い青の澄んだ世界。成そうとしていることが達成できずひりついた焦燥感、から回って自分を苦しめる大きな情熱=乾いた思い、赤を体に受ける。それでも小さな星は澄んだ空に輝いて月うさぎは笑う。
1番Aメロは五感に訴えかけるリアルな描写から、月うさぎというメルヘンを帯びた存在へと跳躍(うさぎだけに)する爆発力がたまらない。 2番Aメロは無力感と僅かなきらめきと空の様子を重ね合わせ、色のイメージで統合して書きまとめている。わかる、というより言葉そのもののイメージの重なりを味わいたい。絵筆の筆致や色そのものを楽しむように。間奏の美しさにいつも惚れ惚れする。「心の奥で白いミサイルが弾けた」からはワールドアパートの「心の中に革命を」を彷彿とさせる。小さな決意から湧いて溢れるエネルギーの圧倒的な質量がクレーターをあけてしまう。月うさぎは無事だろうか。
6.ブルートレイン
イントロから最高。交互に鳴るギターがたまらない。電車が接近する警笛が鳴りやまない。ラッシュ時の駅のせわしなさとイライラ感。オートマティックな転がり落ちる時の流れを表すドラム。不安を抱かせる。ギターはエッジの効いた音で、機械の重さ、鋭さ。
「電車」のモチーフは愛されている。人生は列車の旅であり、各停もあれば特急もある。また満員電車は勤労のシンボルでもある。しかし通過列車をホームで待っていると特に感じるが、あれはいくつもの命を預かった猛スピードの物理的な塊だ。「お客様との接触」。死と身近な存在でもある。電車が豪速の物理的な塊であり、人間を凌駕する凶悪性を持つ、表裏一体な存在であることを忘れてはならない。そうしたテクノロジーに無防備に身を預ける私たちのイノセントな弱さも。
生きている限り、モデュロールを超えた大いなる存在(経済とか社会情勢とか)の脅威にさらされる私たち。ゴールを求め焦り、「日々に潜む憂鬱」に落ち込む。そういった目的地や些細な憂鬱さえわからなくなるほど、誰も導いてくれない道を進んで行くしかないのだ。私たちが電車だ。ガタガタのレールの上を、むき出しの鉄のまんまで、果てもわからずに、いや、わからなくなるために、此処で走ってゆく。
裂く、凍てつく、刺す、傷。物理的な感覚が何度も表されている。また、傷を隠したところでなお湧いて溢れる感情があり、それは「リアル」というありふれた言葉では表すことができない。言葉は既にフィクションであり、本当に体に感じられるものをもっと重んじたい。
サビの歌詞について。「止めどない青さ」を持っていた僕らは今や「夢のない」状態で、その行先は「夢から醒めたような現在(いま)」だったというバッドニュース。あまりにもバッドニュース。青さだけは止めどなく、ひとむかし前ならそれなりの夢や希望を抱くことができた。しかし、いざ自分たちが育った時には、社会には夢を抱かせる余剰やきらめきはなく、「失われた時代」などと言われている。乗り継ぎ券を受け取り損ねたような。経済や社会情勢という大いなる力によって、社会はオートマティックに動いてゆく。「さよならロストジェネレイション」や「転がる岩、君に朝が降る」の「初めから持ってないのに胸が痛んだ」というところと通ずる、生まれつき何かを剥奪された感覚。
今乗っている電車はどこへ向かうのだろう。行き先を忘れる勇気が、私にはまだない。
7.真冬のダンス
これは愛の歌だ。全肯定の歌だ。
人生は波瀾万丈、高低差がある方が、一般にもてはやされる(聞いていて面白い、人間の深みが増す、面接受けがいい等)。一方で、凡人である我々はエクストリームさに欠けるがまあまあ穏やかな人生を送っている。「つまらない映画のラストシーンで泣けないように」われわれは他人に対しては面白み、エクストリームさを求め、面接においてはエクストリーム対決をつい目指してしまう(本質ではないが)。それでも、踊っていいのだ。身体を使って、しょうもない人生でも、自分の足で踊るのだ。丸ごと包んで愛するのだ。それが白いまっさらな気持ちなのだ。それは今は先が見えなくても、いつか輪になって回収されて、自分になる。その日まで大切にしておこう。そのために祝福の、スローなダンスを、というラブソングである。
8.バタフライ
打って変わって、まず全否定。現実の生活を意味がないと否定し、過去も退屈も愛でずに否定し、自分の行ける居場所もないと否定し、世間から与えられた希望のルートも願い下げして否定する。否定して、否定した先に、もう何も残っていない。
前も後ろも否定しきった世界が暗闇。いっそ何も見えないなら良いのに、遠くの方にわずかに「かすむように光」る希望のようなものに、こちらから確認できないくせに、妙に惹きつけられる。そのせいで、自分が確かと呼べる範囲の感覚(君繋ファイブエム!)すら失われてゆく。走光性という本能にしたがって、飛んで火に入る夏の虫のように、光へと吸い寄せられる蝶。感覚も意思も奪われた状態で。本能はガラスのように、脆くて美しくて儚くて透明で混じり気のない仕方のないものだが、その先に待つのは希望か炎か。荒んだ僕、と自虐しつつ、儚く美しいとされる蝶になれるかな、なんて言う。
だが「折れ」てしまう。「折れる」。ナイフみたいな心が折れる。削られた今の日々がとうとう折れる。蝶の手足が、羽が、折れる。蝶になりたいという思いが折れる。いずれにせよ、固形のものが固形のままで途中で途切れてしまうことであり、我々にできることはその落ちた方の先っぽの破片を集めて、大切にとっておくことだ。蝶ではなく、蛾ですらなく、巨大な芋虫になってしまうかもしれない。
9.センスレス
歌いだしの「コンクリートの〜温度感も何もない」までは、「ワールドアパート」や「バタフライ」でも触れられている通り、無機化、電子化、高速化する社会によって、自分の生の実感が乖離していくさまを歌う。センスレスとは意識・感覚を失ったという意味だ。「バタフライ」の作中主体のように、半径5メートルの現実感すらも「画面の向こうに飲み込まれ」失い、走光性=アフォーダンスに導かれて、意思もなく泳ぐ体のことを表している。
「灰色の空」は作中主体の生きる、つまらない・希望のない現実。しかし夜=目をつぶれば、文明の利器で、極度に一般化されたゆるく心地よい状態の幻が見える。赤と緑からはクリスマスを彷彿とする。もっぱら日本では商戦として捉えられ、人々は浮かれきって消費に高じるのみだ。しかし朝になってしまえば、太陽光がふりそそぎ、曇っていればそれすらなく、覆い隠せないありのまま時代の雰囲気がわきあがるのだ。絶望。夢の状態にしがみつこうとする人々の姿の跡を濃く残して。
毎日毎日、人々と情報は錯綜して、ブランドバッグのようなステータスが自分の欲望として擦り付けられ、再び感覚と意思を失った姿が描かれる。それが「現代のスタンダード」(=同調圧力、暗黙の了解)である。(のちの「スタンダード」で歌われる、賛同する人々と風変わりなままの少女という対比も参照されたい)
しかし、「それでも想いを繋いでよ」「君は消さないでいてよ」「心の奥の闇に灯を」と作中主体は歌う。何もしないままだと心は闇に覆われてしまうが、灯=想い=いま感じていることを消さないでいてよ、と。
「バタフライ」のメッセージをより社会的な喩えを使って表した曲なのだと思う。音楽的にも面白く、大好きな曲の一つです。
10.月光
とにかく美しい。イントロのピアノの残響が拡大されて楽器が重なってゆくところは、神秘的な月光の筋が降り注いでくる様をイメージさせるし、言葉も繊細で心に寄り添うものが使われている。こちらは、「おおきいおともだちのための子守唄」とでも言うべきか。
季節は夏。夕立後の夜。大降りの雨が降ってきて、でも空は土気色の奇妙な明るさをしていて、やんだと思えばアスファルトからヌメヌメした暑さが湧き上がってきて、でも秋の訪れのような涼しさが吹いていて寂しくなって……。(夕立といえばフジファブリックの「陽炎」を思わずにはいられない。)夕立に予定を狂わされた子供時代が、それすら楽しかった時代が、誰しもあるのではないか。秋晴れのように快適ではないのになぜか嫌いになれないのは、ノスタルジックなイメージが染みついているからかもしれない。 そうした季節はもう戻らない。大人になった今、静かな夜に孤独を感じるのみだ。入試の時、就活の時、さまざまな選択に迫られるときに、個人ではどうにもならない大いなるものに引き裂かれ、出会いと別れ、失敗や心残りを繰り返し、圧倒され、後ろ髪を引かれ、「悲しみは訳もなく」心に忍び込み、「訳もなくずっと途方に暮れ」てしまう。
涙が溢れて初めて自分の想いに気付くという「皮肉(アイロニー)」。自分の感情にすら鈍感になっている自虐。 そうした「淀んだ」自分から生まれる感情を、「血の味のしない社会(「生者のマーチ」より)」との摩擦で起こり続ける痛ましい出来事を、「かき消す術を知らなかった」。
「最後の時」という語からは神聖なもの、強い力を感じる。現実に対するジャッジが行われて、しかし夢(現実ではないという意味)ではないから、終わりは見えない。その中をさまよう作中主体を月光は照らし、月うさぎは見守っている。
11.タイトロープ
あまりに美しいものに出会うと、その脆さ、非現実さ、醜悪な自分とのギャップから悲しみが湧いてくる。 大切にしようと言ってきた想いさえも、利き手でそっとこねくり回すうちに、原型がわからないものにすり替わってしまう、その不器用さが沁みる。
それでも、泣いたとしても、そういうものを全部集めて、自暴自棄にならず、「心でピースを探して」(「桜草」より)、無意味だなんて無下にしないで。テロや他人との比較、夢や自意識への疑い、色々な要因で何もかもわからなくなった状態。ゼロからの再スタート。11曲かけてアジカンが出した答えは「再確認」だったのだ。「そうだね」。