「ですよね」論
(例1)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張するんですよね。
書籍やブログなどで「○○ですよね。」という文を見かけると、無性に腹が立つ。
日常会話で耳にしたり、インタビュー記事などで目にする分には、口語だから全く気にならないのだが、文章中となると話は別だ。
これは敬語がどうこう、という話ではなく、「〇〇ですよね」と書かれると、「知らないよ、オメーの事情なんか!」という気持ちになってしまうのだ。
たとえ内容が同意できるものだったとしても、「〇〇ですよね」は「うん、そうだね」と素直に受け取ることができない。
これはなぜだろう。私がひねくれているからか?
それは認めよう。
しかし、だとしたらなぜ、ひねくれた私はこの文が気になってしまうのだろう。
比較
では、もし、次のような文だったら?
(例2)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張するんです。
(例3)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張しますよね。
これはどちらもすんなり受け入れられる。
例2では「そうか、緊張するんだね。」という気持ちになるし、例3では「うん、そうだね、僕も緊張するよ。」という気持ちになる。
しかし、「緊張するんですよね。」だけは、「知らないよ!」となってしまうのだ。
仮説
これらの比較から言えることは何か。挙げるとすれば2つ。
1.「です」と「よね」は相性が悪い
2.「です」と「ます」では少し意味合いが違う
例2のように「です」だけだったときは大丈夫なのに、「よね」がつくと途端にダメになってしまう。しかし、例3を見れば「ます」と「よね」の相性は悪くないことがわかる。
そこで、細かい単語に分けて検討してみる。
検討①
「緊張するんですよね」は以下のように分解できる。
「緊張する」+「の」+「です」+「よ」+「ね」
(「ん」は「の」の音便と考えられるため、基本形に戻した。)
新明解国語辞典 第六版を参考にすると、
の ④理由・根拠・主体の立場などを説得的に述べることを表わす。
です ①〔体言および体言相当のものに接続して〕断定の意を表わす。「だ」の丁寧形。
よ 〔口頭〕主体の意志・感情・判断・意見などを強く相手に押し付けようとする気持ちを表わす。
ね ①相手に同意を求める気持ちを表わす。②事の真偽などについて相手に確かめる気持ちを表わす。
すると、「緊張するんですよね」は、「緊張する」ということを断定し、それに同意することを(丁寧に)強要していることになる。
つまり、「そうだね」と読者に無理やり言わせているのだ。
私は、この半ば恐喝のような行為が気に入らなかったのだと思う。ひねくれた私は、他人に意見を押し付けられることが嫌いだからだ。
言わされた「そうだね」と、自分から言う「そうだね」は違う。しかし、この状況では、たとえ自分から言う「そうだね」であっても、言わされた「そうだね」になってしまう。だから、素直に「そうだね」と思えなかったのだろう。
検討②
では、例2はなぜ「そうだね」と思えるのか。
(例2)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張するんです。
これはただ、断定の「です」が入っているだけで、こちらには何も強要していない。筆者が筆者自身について語っただから、素直に「そうだね」と思えるのだ。
検討③
では、例3の「ますよね」はどうか。
(例3)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張しますよね。
各単語の成分は以下の通り。
ます 表現を丁寧にしようとする気持ちを表わす。
よ 〔口頭〕主体の意志・感情・判断・意見などを強く相手に押し付けようとする気持ちを表わす。
ね ①相手に同意を求める気持ちを表わす。②事の真偽などについて相手に確かめる気持ちを表わす。
「ます」には「です」のような断定の意はない。ただ丁寧にするための意味をもっている。
そして、文末の「ね」には、「あなたもそうだったりしますか?」という②の確認の意味も含まれていそうだ。
とすると、「緊張しますよね。」は緊張するかどうかを相手に確認することを強要していることになる。だから、確認した上で「そうだね」と答えることもできるし、「うーん、そうかな」と答えることもできる。反論の余地が残されているのだ。
しかし、「緊張するんですよね。」にはその余地が残されていない。だからこそ、意見を押しつけられて不愉快なのに何も反論することができず、「知らねえよ!」と、キレるしかなくなってしまうのだ。
私は、何かを言うことのできる余地が残されていないと不愉快になるらしい。
検討④
では、「緊張するんですよね」から「ね」だけを抜いた次の例ではどうだろう?
(例4)大勢の人の前で話すのは、どうしても緊張するんですよ。
これにも押しつけの「よ」が入っているが、これはそんなにイラッとしない。
この一文は、たしかに「緊張するんだ」ということを断定して、押しつけてはいるが、同意することまでは強要していない。
「ふーん、そうか。俺はそうは思わんけどな。」と反駁する余地が残されている。
同様に、「よ」だけを抜いた「緊張するんですね。」も、同意/確認を求められてはいるが、強要はされていないので読者はそれに反対することができる。
故に、腹を立てることはない。
まとめ
以上、「ですよね」について考察をしてきた。
(例1)緊張するんですよね 断定+同意の強要、ムカつく
(例2)緊張するんです 断定、ムカつかない
(例3)緊張しますよね 確認の強要、ムカつかない
(例4)緊張するんですよ 断定の押しつけ、ムカつかない
このように、「ですよね」に腹が立ってしまう理由は、断定したものを押しつけられた上に、同意まで強要されているからだということがわかった。
また、反論の余地が残されているものについては別段腹が立たないことがわかった。
思うに、「ですよね」という言葉は、筆者が、断定することを躊躇する姿勢から発せられたもののように感じられる。「緊張するんです」と一度は断定しておきながら、「よね」と続けてこちらに同意を求めてくる、そういう自信のない態度が、私は気に入らないのかもしれない。
「ですよね論」を展開していたつもりが、自分が何に苛立つのかまで考察してしまった。
私はこれからも、「ですよね」を文章で見かけるたびに腹を立てていくのだろう。
追記1
しかし、「ですよね」にも、例外は存在した。
(例5)こんなことを言われたら、誰だって嬉しいですよね。
あ〜、たしかにこれはイラッとしない。「です」の別の用法だ。
です ③〔形容詞・助動詞(ない・たい・らしい)の終止形に接続して〕表現に丁寧さを添える。
この「です」は断定の「です」ではないから、確認の強要「よね」とぶつからないのだ。「ますよね」と同じ機能と言える。
一概に「ですよね」が悪いとは言えないのか……
いやあ、日本語って、本当に、難しい“ですよね”。
うーん、自分で使うと、やっぱり気持ち悪い!
追記2
断定・同意押しつけの「ですよね」と、丁寧確認押しつけの「ですよね」はどうやって見分けたらいいだろう。
(例)日本語って、難しいんですよね。
(例)日本語って、難しいですよね。
「ん」か!
「ん」(原形は「の」)が入ると、とたんに断定になり、同意の押しつけとなる。「の」は「だ・です」と結合して「のだ・のです」を構成するからだ。
これで、真の敵は「んですよね」であることがわかった。
「んですよね」、これを文中から駆逐しなければならない(過激派)。