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SF(すこしふしぎ)の本懐について -考えぬいた先に辿り着いたのは最新中国SF?-

すこしふしぎとは?

藤子不二雄が提唱する"SF: すこしふしぎ"な物語は我が国においてはSFジャンルのひとつとして認知され、後世の創作において重要な基盤になっていると認識している。
具体的にはF先生は下記のように語っている。

“SFエスエフ”の二文字は、SUKOSHIすこし FUSHIGIふしぎな物語の意味です

 藤子不二雄、てんとう虫コミックス別コロ版 藤子不二雄少年SF短編集 第1巻『ひとりぼっちの宇宙戦争』(小学館1983年)カバーそで「作者のことば」

解釈するに、ドラえもん、パーマン、キテレツ大百科から連想するような日常+ふしぎで構成される作品のことと思われる。
サイエンスに立脚することを志向せずに、僕たちの暮らしに少し不思議なことが起こったら楽しいのにな、を具現化したもの、と理解している。

そう言ってしまうと陳腐なもののように感じてしまうが、"こんなこといいな  できたらいいな"の純度100%をぶち込みながら適度な日常感、適度なサイエンス要素、適度な冒険、たまに家族愛やブラックユーモア、を完璧なバランスで織り交ぜたものを幼少期から与え続けられて、洗脳状態になった少年・少女は少なくないだろう。


時空についての特定の解釈を幼少期に押し付けてくる恐ろしい漫画
これが当たり前の時空・タイムトラベルの理解だと30年思い続けている

個人的なすこしふしぎ的作品たち

さらに恐ろしいところは、洗脳状態を自覚しているのかどうか分からないが、日本の近代SFはすこしふしぎ影響を受けているものが少なからず存在している。

あらゐけいいち: 日常 は「日常」を題材にしたシュールな群像劇ギャグ漫画だが、主要キャラのはかせ(幼女発明家)と東雲なの(少女ロボ)が女子高生の日常に与えるアクセントはすこしふしぎを下地にギャグに昇華させてものを感じる


あらゐけいいち: 日常 はかせと東雲なの

デッドデッドデーモンズデストラクション : 浅野いにお は女子高生と異星人との邂逅が導く終末を描いているが、全面に押し出されたドラえもんオマージュに留まらず、カイケツこいけさんウルトラスーパーデラックスマンいけにえといったSF短編へのリスペクトが随所に含まれる


当然、わたしのような一般視聴者もこういった作品を見るときにはすこしふしぎを前提とした見方をしてしまう。
日常xSFっぽいというだけで。
その姿勢はかなり不健康だとは思いながらも、もはや染み付いてしまっているのが正直なところだ。

過去のことを穿り返してきて大変申し訳ないがさよなら絶望先生 : 久米田康治 では作者が無意識のうちにドラえもんと酷似した内容の話を書いてしまい単行本掲載自粛となった騒ぎもあった。
確かにドラえもんの該当回とは構成や文言の被りが大きく、もっとも強い言い方をすれば"パクリ"になるのかもしれない。
一方でどれだけネタに困窮していてもドラえもんからパクってくる阿保な漫画家はいないだろ、とも思う。
文壇(漫画にもこんな概念はあるのか?)にドラえもんがあることは大前提、共通認識の上で久米田は作品作りをするだろう、個人的には思う。

前項の浅野いにおはこれを逆手に取って、モロなパクリをすることでパクリとは取られていない。
ここらへんが"ドラえもん~すこしふしぎ"の我が国における立ち位置を肌感で表してくれていると思う。

そのこと自体は素晴らしい日本の文化・誇りだが、正攻法でのポストドラえもんがないことの証左でもあろう。

それでも町は廻っている : 石黒正数 は日常群像劇とすこしふしぎとミステリーのアンバランスを心地よく描いた快作だったが、ポストドラえもん的評価は見られない。

ほのぼの日常女子高生に突如訪れるSF展開 : それでも町は廻っている

30年以上空座になっている "ポスト・ドラえもん"

完全に私的な見解だが、
ポスト魔女っ娘はまどかマギカ。
ポスト時をかける少女は涼宮ハルヒの憂鬱。
ポストマジンガーZのガンダムに対してポストガンダムがエヴァンゲリオン
だと勝手に思っている。

一方でストドラえもんはもはや到来しないのだろうか。
ドラえもんはその時代性が産んだ寵児であり、現代では成立しないのだろうかと常々感じている。

F先生が亡くなってから来年2026年ではや30年。
大長編ドラは今年も公開予定だが、サイエンスは30年の間に様々変わってきている。
ロボットや人工知能についての認識はドラえもん初期に比べて一般人レベルでも大きく変容してきており、特に近年は大規模言語モデルの発展からシンギュラリティの可能性までを非SFファンまでもが感じている。
"すこしふしぎ"は現代人が楽しむにはいささか牧歌的に過ぎるのだろうか?
わたしが子供のときに宇宙戦争 : H.G.ウェルズを読んで少し笑っちゃったような感覚に近いのだろうか。

とくに日本ではガチンコでドラえもんにぶつけられるような作品がないことに寂しさを感じる。
そんな状況の中、衝撃を受けたのがいわゆる"中国SF"である。

中国SFがおもしろい

中国SFと言えば、最近でもNetflixで映像化され、話題に事欠かないハードSF三体 : 劉慈欣(リウ・ツーシン)があるが、それだけに留まらずあらゆる種類のSF作品が怒涛のように産み出されている。

特に夏笳(シャー・ジア)の作品は、中国SFの中でも"すこしふしぎ"的な要素を持つものが多い。
詩的で幻想的な雰囲気を持ちながらも、人間の感情や社会の変化に深く根ざしており、SF的なガジェットや技術を扱いながらも、それが日常の延長として描かれるため、F先生の"すこしふしぎ"と通じるものを強く感じる。

百鬼夜行 : 夏笳 はSFと中国の民間伝承との融合がテーマの写実的な作品になっている。
毎晩百鬼夜行が繰り広げられる楽しくも奇妙な町に育った少年のストーリーが美しく描写される。
夏笳は自らの作品をハードSFでもソフトSFでもない、おかゆSFと評する。
人の営みの中にあるすこしのふしぎを切り取った物語がF作品読了後の心地よさに似通ったものを感じる。

他にも中国SFは折りたたみ北京:ケン・リュウ といったアンソロジー形式でまとめられているのでぜひおススメしたい。

おわりに

これらがポストドラえもん足るかというと、そこまでは……というのが正直なところだが、主張したいのは日本にもポストドラえもん的な意欲を全面に押し出した作品が出てきて欲しいというところである。

非常に残念だがF先生もA先生も既に他界されている。
もはや新しいドラえもんネタはそこからは出てこない。
永遠にそこを擦り続けるわけにはいかないのは自明である。
(永遠に擦れるほど不変でオモシロイのが悪い!とも思う)

すこしふしぎのど真ん中をやっちゃうような豪胆な才能が出てくるのは日本か、中国か、それとも……
あらゐけいいち浅野いにおもめちゃくちゃ楽しんだが、何週も廻って、そろそろそんな作品が出てきてもいいような下地が一般読者にも出来ているのではないか。
待ち望むこの頃である。


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