育児にはリーガル・マインドが要る、という話。
「リーガル・マインド(法的思考力)」は誰もが身に着けたほうがいい、などといわれています。
でも、これがどんな能力なのかについてググってみても、三者三様の説明があり、「民法○○条を使って説明すると~」と急に専門的になって説明が難しいな、と感じることもありました。
「誰もが」というなら、法的な知識が要らない、リーガル・マインドの説明がいるんじゃないかなーと思った次第です。
そこで、このnoteでは、私が育児をしながら、「いま、リーガル・マインド使ってるなー」と感じる瞬間を例に、リーガル・マインドとはなにかを説明してみたいと思います。
(*書いている人:越智萌:立命館大学国際関係学部の准教授として、国際刑事司法を教えています。)
前提
このnoteでは、3歳ごろから6歳くらいの子どもとのコミュニケーションにおいて、「いま、リーガル・マインド使ってるなー」と思う場面を使って、リーガル・マインドの一部を説明してみたいと思います。
育児には色々な場面もあるし、子どもの成長に従って色々な段階がありますよね。
(子どもにも個人差がありますし、こうでないといけない、というものではありません。)
ルールを説明する
「ダメ!」→「なんで?」→「えーっと…」
子どもは話せるようになると、「なんで?なんで?攻撃」をしてきます。
何言っても、「なんで?」。
「道端の石をポケットに入れちゃダメ!」→「なんで?」
「他の子のおもちゃを勝手に取っちゃダメ!」→「なんで?」
「お風呂入って」→「なんで?」
この「なんで?」にこたえるとき、どうしますか。
はい、リーガル・マインドの出番です。
リーガルでない答え:
×「道端の石をポケットに入れちゃダメ!」→「なんで?」→「なんでも!」
言っちゃいがちですが、リーガルじゃないですよね。
リーガルな答え:
〇「道端の石をポケットに入れちゃダメ!」→「なんで?」→「転んだ時にケガをするから」
リーガル・マインドの第一歩は、何かルールを教えるとき、その理由を説明することです。
法律でいえば、その法律の「保護法益」や「立法趣旨」「立法目的」「理論的根拠」が説明できる必要があります。
ある法律を作るときは、その法律がなぜ必要なのか、じっくり議論しますよね。
でも、賢くなってきた子どもは次にこういいます。
「ケガしてもいいもん」
でたー。これに対するリーガルでない答えは
×「よくない!」
理由になってないので、理由を説明しましょう。つかれますよね、育児。
〇「石で足をケガしたら痛いし、病院にいかないといけなくなるかもしれないよ。そうしたら、注射もしないといけなくなるかもしれないよ。」
このように、ルールの理由に加えて、ルールがより大きな不利益を防止するためのものであることを説明するのが、リーガル・マインド。です。
原則を打ち立てる
「危ないでしょ」で済むようになる
子どもがけがをしないためのルール、たくさんありますよね。
「道路の真ん中を歩いちゃダメ!」
「駐車場では手をつないで!」
「信号を渡るときは右左を見てから!」
「急な坂道は走っちゃダメ!」
これを積み重ねるていくと、「なんで?」のあとに、「危ないでしょ」だけで済むようになっていきます。
このとき、「あ、原則がうちたてられたなー」と感じます。
つまり、「危ない」ことは原則禁止である、という一般原則です。
「危ないでしょ」→「けがをしないような予防措置をとるべきである」、という、いろいろな場面で前提になっている共通のふわっとしたルールが形成され、子どもに共有されているといえます。
つまり、「けがをしそう」な条件が満たされていない場合には、予防措置はとる必要はありません。
車が一台しか止まっていない広い駐車場では手をつなぐ必要はありませんし、3歳ではなく6歳になったら、急な坂道で走ったくらいでは転んだりしません(ちょっとさみしいですが。よちよち歩きが懐かしい。)。
なので、成長してきた子どもが、「でも他に車ないよ」とか、「もう大きいから大丈夫だよ」とか言ってくれちゃうと、「原則と例外の条件を理解してる、えらいなー」と感心してしまったりします。
原則には例外がある
ただし、「けがをしないような予防措置をとるべきである」は原則であるので、例外が存在します。
例えば、ちょっとけがをしてしまいそうな跳び箱やジャングルジムなどの遊具は、けがをしそうでもチャレンジすることで活動能力があがります。
将来起きる可能性のある不利益より、身体能力の向上という利益が上回る場合には、「けがをしないような予防措置をとるべきである」という原則に例外が追加されます。
このように、原則には、理由があれば例外が存在しますし、それはこの例外の利益が原則が破られる不利益を上回る場合に成立します。
ルールと原則の関係を一貫させる
米国の法分析学者ドゥオーキンは、著書『法の帝国』の中で、「インテグリティとしての法」という考え方を提唱しました。「インテグリティ」の日本語訳は難しいのですが、ここでは「一貫性」としたいと思います。
法は、一貫していることに意味があります。
原則があり、原則の例外があっても、その例外には理由がある、といった具合です。
原則の例外の状態が整っていないのに、例外が適用されることはありません。
「駐車場に他に車が止まってないよ」と子どもが言った場合、どうしますか?
「駐車場なんだから手をつないで!」
と言う親御さんもいると思います。子どもが、駐車場では手をつなぐ、というのを覚えてほしい段階ではこう言うかもしれませんね。
でも、原則と例外の関係を理解した子どもはこれでは納得しません。
なぜなら、この家族にとっての原則の内容は「けがをしないような予防措置をとるべきである」なのに、けがをする可能性がないのに予防措置をとるのは矛盾しているからです。
法の適用範囲を決める
ところで、子どもにはなるべく干渉せず、けがも少しはしてよい、という子育て方針のご家庭もあることでしょう。
公園にいると、よちよち歩きの幼児がジャングルジムに上ろうとしているのを止める親御さんと止めない親御さんがいます。
補助輪なしの自転車で公道を走るのも、いつからにしようか、悩みどころですよね。
子どもが大きくなってくると、「○○くんはもう自転車乗ってるよ」と言われたりします。
でもねー、体格差があったりとか、うちの家の前は結構交通量が多い、とかいろんな理由で、我が家では自転車はちょっとな、という場合もあると思います。
そんなときは
「うちはうち、よそはよそ」
はい、法の適用範囲を決めます。
このルールはこの家でのルールであり、普遍的なものではない、ということですね。
属地的ルールと普遍的ルール
他方で、人を殺してはいけない、とか、ものを盗んではいけない、とかは、世界共通で禁止されていることです。
このルールはこの家のものだけど、この家以外でも同じルールがあるよ、という。
これは我が家のルールであり、外に出たら違うルールがあり得る、というのは、ややグローバルな視点かもしれませんが、
法とは社会の産物であることを理解していれば、おのずとこの区別がつくはずです。
親は子どもに対する専制的立法者
このように、家ごとのルール、しかも一貫したルールを決めるのって、どうやってやっていますか。
おそらくですが、ご自分の育ってきた過程で、自分の親や養育者に言われてきたことが身についているかと思います。
法とは文化の産物である、ことも、ここで理解ができるかなと思います。
そしてたいがい、子どもが親に口答えができるようになるまでは、養育者が子どもに対するルールを決めます。
その意味では、親は専制的立法者なわけです。Not 民主主義。
このことには、自覚的であるべきだと私は思っています。
子どもがルールに「なんで?」と言って納得しない場合は、子どもとルールを話し合うのもいいかもしれません。
投票だけが民主主義ではなく、「熟議による民主主義」により、社会(家庭)の構成員がルール作りに参加するというのは大切なことだと思います。
とはいっても、「なんでもいいからさっさとお布団に入りなさい!」とか言ってしまう疲労困憊の夜もあるものです。
おわりに
このnoteでは、3歳ごろから6歳くらいの子どもとのコミュニケーションにおいて、「いま、リーガル・マインド使ってるなー」と思う場面を使って、リーガル・マインドの一部を説明してみました。
このnoteを書いた理由は、子どもと会話していると、法とか規範の本質みたいなことをよく考えてしまうからです。うちの子はだいぶ成長してきたので、記憶が薄れる前に、時々ふと思っていたことなどを書き留めたいという気持ちで書きました。子どもを叱りながら、「ほう、これが立法批判的法益保護テーゼの活用だな」などと頭の中で法学者の自分がささやいていたときが懐かしいです。
ところで、子どもは親がルール設定を一貫してできないところに、「人間とは矛盾にあふれた生き物である」という真理を学ぶのだ、という意見もあります。法学者でも、多様な法規範の矛盾を説明できないことは多々ありますので、そんなに神経質にならなくて大丈夫だと思います。子どもにルールを教えながら、「今、リーガル・マインドを養ってるんだな」とふと思ってもらえたら嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました。
越智萌