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「M-1が競技化された」とかどうでもええわあほんだら日記。

最近M-1がスポーツ化してると言っている人を多く見かける。
その殆どの人が結構ドヤ顔な気がする。
「側」の解体はもうほんとにどうだっていいと俺は心の底から思う。
特に芸人でこうゆうこと言ってるやつは最悪だ。
そいつがM-1に参加しているか否かとかは置いといて、ありとあらゆるステージから降りたのだなと思う。同じ芸人であるならば(そうじゃなくても)、あそこで命を懸けている人達がどういうつもりで、どれ程の熱量でのぞんでいるかくらいは意図も簡単に想像ができるはずだ。それを素直に称えることができないのは、みっともないことだと思う。
「側」だけじゃなく、参加する「芸人」そのものに批判的な文章を書いている人もいた。
M-1に関して口を出せるのは、あそこで結果を出した人間だけだ。
結果を出した人間が全て正しい世界。というかそうであってほしい。
様々なコンテンツがある中で、M-1は唯一「おもしろい奴が正しい」を地で行っていると思う。
そうゆう見方によっては理不尽とも言えるような価値観に惹かれて俺はお笑いを始めたような気がしなくもない。
違うと思うなら、黙ってるか、参加して変えるかの二択しかない。

ちなみにスポーツ化の話だが、そもそもM-1には制限時間というものが存在する。それが漫才を競技化させている。テレビなのだから、制限時間が設けられるのは当然のことだ。スポーツにも距離や時間に制限がある。そうしないといつまで経っても一位を決められないのである。
となると、当然決められた尺の中でおもろいことを必然的に起こさなければならないので、ボケの配置等の調整が入ってくる。
だからネタそのものが競技的になってくるのは当然の話なのである。
M-1に出た芸人は、時に競技的な部分を超越することがある。爆発的な笑いはそこで起きる。
これまでM-1で何度も全身が震える程に痺れたネタを見た。その人達は全員ネタに凄味があって(たとえシステムのネタでも)、人間力で笑いを取っていた。漫才の根幹はそこにあると思う。
そういった現象を何度も起こしてきたM-1というステージと、それに懸ける価値があると、日々の生活を燃やす芸人を見て、俯瞰的な意見など述べることは俺はできない。今年は二回戦で負けちったから、来年頑張る。おわり。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。