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1月30日 誠に身勝手ながら

歩きながら本を読んだ。普段はしない。小学生がよくやる。スマホ歩きをしている小学生を見ると危ねえと思うのだが、歩き読みしている少年少女には、もっとやれ!と思うのは何故だろうか。図書館で借りた本が12冊も溜まってしまっている。入り口で3冊返した時、せっかくきたのだからとぐるっと一周するのだが、出口では4冊を手にしている。その繰り返しで、常に12冊くらいを借りている状態となってしまっている。先日12冊をもう一度延長してくださいと言ったところ、係の人間が少し嫌な顔をした気がして、さっさと返したくなったのである。だから、急いで読まなくてはならず、歩き読みをしている訳だ。スマホ歩きをすることがある分、読みながら歩くことに幾らか慣れていることが分かった。現実の風景が、文字により頭の中で描かれた風景とは別に、移り変わっていくのも新鮮だった。信号もあるし、人もすれ違ってくるので、時折本から目を離し、また戻した時にどこに戻れば良いかを探さなくてはならないのはストレスだった。

そうゆえば最近反抗期に入った。腹が立って仕方がない。極端な選択をし続けている気がする。
何故明るく振る舞ったり、会話の間を埋めるために阿保なフリをしたり、話しかけられやすいように軽薄な人間の真似をしたりしなくてはならないのだろうとふと思った。というか、私はそうゆうようなやり方でしか、友人以外とは会話出来ないのである。そのため、職場で私に向けられる言葉の殆どが、取るに足らないものの連続で、間を埋めるための言葉を四六時中浴びる羽目になってしまっている。間を埋めるための言葉は時間を感じさせないように出来ているし、コミュニケーションの外側のみをなぞっただけのものなので、気が付けば3年が経っていて、その間に私は誰とでも仲良くなれると勘違いをするようになっていて、現在に至る。
皆、自分のために私に何かを言う。私は壁だ。疲れてる?頑張って、と私に言う。黙れ。そんなことを口にするな。時間だけが経つ。私は現在子供じみたことをしている。元気?とか、今日何時まで?とか、疲れてる?とか、遅番?とか早番?とか、そんなことしか言ってこない奴等と会話をするのを辞めたのである。元気がないの。はアリ。元気?はナシ。俺は阿保だけど、俺を壁だと思っている連中が思い浮かべている阿保とは全く別の阿保だ。全て私で始まって、私で終われることなので、それを周囲にばら撒くというのはちゃんちゃらおかしいことなのだが、ちゃんちゃらおかしくても良くね?という気持ちにならなくてはいけない気がしていて、それは時間が経つにつれ自分が平均的になっていっている実感からくる焦りでもあり、それを表面的にでも克服するために、私は誠に身勝手なことをするのだ。多分間違えてるから、すぐに辞めるけども。間違えてもまだ許されるであろうから、その時はまたその時で。



落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。