老婆の嘔吐を彼が見た。
老婆が嘔吐した。突然のことだった。老婆の足元には透明な水たまりが出来ていて、彼女はそれを踏まないようにしながらもその場に立ち尽くしていた。これ以上、私が出来ることはありません、と言わんばかりに、ただ一点を見つめながらその場に立ち尽くしていた。
マスクをしながら嘔吐をしたことから、彼女自身にとっても突飛なことだったのが分かった。
彼女は誰かを待っていた。
彼女の瞳の奥には確かな強い意志があった。
嘔吐をした人間は人から助けられるべきだと彼女は考えていた。
彼は彼女と同じようにその場に立ち尽くしていた。
彼女と目が合った時、彼は、何も分からないふりをした。どうするべきでもないと思ったのだ。そして厚かましい女だなと、彼女を少しだけ軽蔑したようだった。
その場から立ち去った彼は、笑っていた。
我慢ならなかったのだ。
自分の体内から噴水のように突如溢れ出た嘔吐物を、煩わしそうにしていた彼女のことを考えると、笑いが止まらなかったのだった。
少ししてから、彼は本当は笑えないのではないかと考えた。
自ら笑う選択をしたに過ぎず、あれは本来笑うようなことではないのかもしれないと不安になったのだ。
彼女のことを全く知らないからこそ、笑ったのではないだろうか。
本当は恐ろしいことで、がしかし赤の他人であることから、真逆の態度を取ってみたのではないか。
そう思うと、彼は距離について考えだすようになった。
自分と近しい人間が、彼女と同じような境遇になった時のことを想像すると、彼女のあの強い眼差しの意味が変わってくる。
結局そんな所なのかと思うと、彼は空しい気持ちになり、それでいてとても楽になったのであった。
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。