世間話について最近思ったこと
世間話が嫌いで、例えば「出身地どこですか?」「暖かくなってきましたね」などと言われると「俺と話すことがない」ということを強調されているような気分になってしまい、スイッチを切ってしまうことが多々あった。「喋るな、黙れ」とずっと心の中で唱えていたのである。
がしかし、最近世間話の目的を自分が履き違えていたことに気が付き、それからは「世間話」を多用するようになった。
新卒で銀行に勤め始めた時に「私」を剥奪されるような運動が会社全体で行われていることに気が付いた。この「私」とはこれまで自分が生きてきた環境に基づいた価値観や思想のことである。
俺はこれに反逆するようにして、「昨日あったおもしろい話」や「親父が自殺した話」を上司にしまくった。最初はおもしろがられていたが、途中から「落合は学生気分が抜けていない」などという実に抽象的なこと(言語に意味がなく、腕力のみでねじ伏せられるような印象を受けた)で「社会人」を目指すように仕向けられた。
当時はそれが気持ち悪くて二か月で退職してしまった訳だけど、今ならその理由が少し分かるような気がする。
「成果」を生むために、一か所に何百人もの人間が集められるのが会社である。つまりそこには何百通りの価値観や思想がある。これらを一つの方向性に向かって束ねるのために必要なのが「社会人」という空虚な偶像である。
この「社会人」というものがなんなのかが俺は未だに分かっていない。
例えば俺は今バイト先で遅刻しても全く怒られない。だから俺は社会を生ぬるいものだと思っているが、銀行に勤めていた頃は「社会を舐めるな」「社会人として」などと散々怒られた。その時に「社会は厳しいなあ」などと思ったが、今は思わない。つまり俺にとっての「社会」は労働環境によって変容している訳である。
社会というものを今この手で自分で作っているという自覚を持っている人があまりにも少ない。「社会はお前が思ってるよりも甘くない」と怒る社会人に「お前が許せば社会は甘いものとなる」と俺は思う。
それなのに誰も当事者意識を持っておらず「社会人ってのはなあ」などと言う。「私達」の代名詞として「社会人」を使うことに違和感がある。
「社会人」とは各々が築き上げた環境や価値観を一度全て取っ払うために、用意されたアイコンのようなものなのではないかと思う。
他の会社の人間と商談などで会話が上手くいくのは、そこにいる人間全員が「社会人」だからである。何十人いようが、そこにいる全員が「社会人」という「役」を割り振られている。
ちなみに会社の飲み会がしんどい理由はここにある。
俺は退勤後の「飲み会」は『ドラマ「社会」』のクランクアップだと思っていたので、スタッフさんから渡された無数の花束を抱えながら、「社会人」という役から離れ、居酒屋で好き勝手お喋りをした。
次の日出社するとあれだけ笑っていた先輩が鬼のような顔をして「社会人」を演じている訳で、俺はもう訳が分からなくなった。それから飲み会に連れていかれても「ここで何を言っても明日にはみんな「社会人」になってしまう」と思うと、なにも話す気が起きなくなった。というか飲み会のそもそもの意味が分からなくなったのである。
俺は演技が下手なのだと思う。どの場所に行っても「落合のダッチワイフ」をやっている。それが許されるのはほんの一握りの俳優だけで、キムタクとかそういったレベルの人達である。だから俺は役者としての自分の力量に限界を感じ、自らあの世界から降りたのかもしれない。
世間話もこれと全く同じことが言える。
前に上司に「落合はフォーマルな会話をしろ」みたいなことを言われ、彼を心の底から軽蔑したが、例えば商談の場で「いや~昨日俺さあ」と話しはじめる社会人など社会では不要である。
つまり話すエピソードもまた「私」を剝奪しなくてはならないのだ。
それが世間話だと俺は考えている。
世間話の目的は「時間の停滞を避ける」ことである。
話している内容はなんだってよくて、重要なのは「時間」なのだ。
なんでそう思ったかというと、可愛いなあ~~と思う女の子と話すことがないのに話したいという気持ちになった時に「最近暑くね?」と俺が咄嗟に言ったからである。
俺は彼女との会話の内容より、彼女と話す時間を重視した。
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。