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どうすればよかったか?の感想。

はじめに

映画「どうすればよかったか?」を見た。見る前はめっちゃくらうだろうなと思っていたけど、案外大丈夫だった。というよりも「知ってる、これ怖いよね」と思った。なにを知っているかというと、時間の残酷さと現実の取り返しのつかなさについてだ。幼い頃、父親がある日突然自ら命を落としてから、自分は母親に「あなたが母親でよかった。ありがとう。」と口にするようにしている。言っておかないと、また突然いなくなってしまう。今、自分が最高な人生を送れているとしても、そうじゃなかったとしても、一切の関係がないところで、人は突然死ぬ。父親に聞きたかったことは山程ある。時間はコントロール不能で、かつ未来へ向かって直線的に、そして恐ろしいくらいに淡々と進んでいく。現実と向き合って、自分で選択しなければ、本当にただ終わっていく。

そして「家族」の呪いについても僕はよく分かっているつもりだ。以前書いたこともある。

“離れて暮らすと彼女が「全ての答えを持っている人」ではないことに気が付く。自分と変わらない大したことのない人間だと分かる。 親がまともじゃないことに気が付いても全然大丈夫。 前進するためなら、親を軽蔑してもかなりアリ。 少しでも依存を感じたらすぐに離れた方がいいと思います。”

映画を見て感じたことを経験を通して書いていこうと思う。

「境界線の間違え方」

この映画を見た知人が「父親は娘を他人事として捉えることができなくて、自分の身に起こったみたいに受け入れられなかったんじゃないか?」と言っていて大いに納得した。というかそこがめっちゃポイントだと思う。この「自分/他者」の境界線の間違え方というのは家族特有で起きる問題だと思う。この映画に大勢の人が共感するのは、自分も経験したことがあるからに違いない。
例えば自分は母子家庭で育ったのだけど、母親はずっと僕に「車とマイホームを買って安定した仕事に就きなさい。」と言い聞かせた。マジでずっと言われてきた。これは息子に幸せになって欲しいという純粋な気持ちだし、愛であることに間違いはないと思う。でも途中で「これは母親が父親にやってもらえなかったこと。」でもあることに気が付いた。だから彼女はよく続けて「奥さんがもしできたら専業主婦にしてあげなさい」とも言った。
これは「期待、祈り、願い」だ。そしてそれは行き過ぎると私物化にもなり得る。
親からの期待や祈りを感じたことは大勢の人もあるはずだ。僕の場合は「母親がいなくなったら好きに生きれるのに。」と思うのがしんどくて、全てを裏切ってお笑い芸人になった。なぜ裏切れたかというと、自分で意思決定をすることができるからである。ここがポイントだと思う。意思決定が難しい状態のお姉さんに過剰な程の期待や祈りが乗っかったことで、あまりにも家族が歪な形になってしまった。が、親からの期待を感じたこと、もしくは家族に希望を乗せたことは皆あるから「分かってしまう」のかなと思った。「どうすればよかったか?」は分からない、何も言えない、途方もない問いだと思うのだけど「どうしてこうなってしまったのか?」ということについては映像がかなり物語っていたとは思う。

「部屋」と「演出」について

部屋の生々しさが凄かった。これは藤野家だから、ということではなく他人の家というは(特に実家)というのは自分にとってなんらかの「異常」が常に発生していると思う。人の家の中って本当にヤバくて、無意識の行動とか
選択が蓄積しそれにより発生した空気感が充満している。「物」って思っている以上に空間に影響する。夏に使ったうちわここに置いてんだとか、そういうのが無限に漂ってるのが人の家だと思っている。なんかこのにおい生理的に無理だな、とか、なんかここでご飯食べたくない、リビングの照明の感じいやだな、とか感じることってあると思う。
この映画はそれらが画面越しにダイレクトに伝わりすぎてきてしまって、それにめちゃくちゃ酔いそうだった。部屋のにおいすらなんとなく伝わってきそうな感じ。これを可能にしているのは「家族」がカメラを回しているから、そして映画化することを誰も知らないからだと思う。
終始僕は、高速で時間が進む藤野家のソファーに座らされているような気分だった。
この映画は演出めいたものはなかったけど、最後だけあったと思う。エンドロールのあと。あの瞬間はめっちゃよい意味で映画だなって思った。お姉さんがピースをして見送ってくれているカットを選んだ意味。

父親

かなり頭の良い人なんだなと思った。ただ話す時に毎回「だからこれはね」みたいな感じで、問いに対してただ1つの答えを持っているような話し方をする印象を受けた。家族の中の「答え」を担当をしていたような気がする。この映画を見た知人が「息子さんがカメラを回している時に母親が「どうして回しているの?」みたいなことを言ったときに父親が「これはインタビューの練習でね」と説明したシーンあったでしょ?あれって多分お母さんは普通に雑談がしたかっただけだと思うんだよね。でもお父さんは正しさの説明をしたし、結果的にそれは間違えてたじゃん。」と言っていて、なんかそれってこの家族の歪さの芯をめっちゃ捉えてるんじゃないか?と思った。
最後、棺に論文を入れる場面は愛であることは確かだけど、娘と自分の境界線がどれほどボヤけていたか、ということを象徴したようなシーンだったと思う。論文を置く位置が顔に近すぎるのが気になった。

どうすればよかったか?

例えばこの映画で起きた出来事を、ネットの記事で読んだとする。文末に「どうすればよかったか?」と書いてあれば、それを読んだ全員が「早めに病院に連れて行けばよかったのでは?」と回答したと思う。でもこの映画を見た人の感想をSNSでみても誰もそんなことは言ってなかった。言えない。あまりにも具体的すぎたから。正しさだけを選べないことを、僕たちは全員分かっている。今この世界を生きる全員に画面にうつっていたような人生があることをちゃんと分かっておかないといけないなと思った。

この映画を見ていて胸が苦しくなったのは、世間体を気にしていたとかじゃなく、完全に崩壊しているのにそれを分かりながら両親が家族の形をキープしようとしていたところだった。だから娘に対する接し方が元気だった頃の娘への接し方と変わらない。愛していたのだけは確かだった。

「どうすればよかったか?」なんて分からない。途方もない問いだ。自分で決めるしかない。
娘さんは不幸だった、とは僕は言えない。それすらおこがましいし、花火を見ていたような美しい時間があったのも本当のことだ。自分はとにかく生きていくしかない。どの可能性もある。どれを自分の中で本当のことにするかは、自分で選択するしかない。父親の最後の回答。多分認めたらもう生きていけなかったんだと思う。息子さんとの対話のシーンで母親が言った「お父さん死んじゃうよ」ってのはそのことだ。
だから「どうすればよかったか?」と聞かれたら「自分でどれを正解にするか決めるしかない」としか答えられない。向き合うしかない。

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落合 りょう(落合のワイフ)
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。