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映画、インターネット動物、欲望

映画「死刑に至る病」を見た。原作を読んでないから分からないが、きっと原作のおもしろさを超えていないんだろうと思った。暴力シーンがあまりにも生々しすぎて、文字が生む余白の効果を潰してしまっているような気がした。あそこまでえげつない描写をしなければならなかった意味がよく分からない。ただの飾りのようだった。
最終的になにが言いたかったのか分からなかったし、そもそも言いたいことなどなく「ストーリーのおもしろさを伝えたいだけ」なのであれば、そのために「殺人」や「暴力」に頼ったということになり、それは単に実力がないだけでは?と思わざるを得なかった。ずっと側のディテールの細かさだけを見せられていた気分。中身がない。
中原昌也の小説の中に、文学の生贄となってもらうために駅の階段で老婆を突き落とし、街中の動物を殺して回っている小説家の男がいたのを思い出した。それを書くということは、世にはびこる理不尽な暴力を支持することになると彼は言っていて、この映画にも同じことが言えるなと思った。勿論そのつもりはないだろうが、なんていうか俺はこういうのがマジで嫌いなんだなと分かった。

話は変わるが、Twitterで「癒される動物」というその名の通り「癒される動物」の動画をツイートしている大嫌いなアカウントがある。先日子供の柴犬がひよこ七匹と一緒に歩ている動画と共に「自分をひよこと勘違いする子犬」みたいなツイートをしていて、してないだろと思った。
インターネットの文脈における「癒し動物」が気持ち悪くていやだ。自分のことを社畜だと自虐ツイートをすることによって、また明日働けるだけのエネルギーを養っている、環境を変える努力をしない人達の餌になっている動物が可哀想でならない。自分が犬だったら嚙み殺しているに違いない。
「癒し」とか「エモい」とかって、人間の過度な解釈によって生まれていることが多いから不快だ。対象の主観を踏みにじっている。
あとグルメアカウントがツイートしている「牛タン」の画像をリツイートしてて馬鹿なんじゃねえのかって思った。「癒し動物(牛)の死骸のベロ」ってやばいだろ。キチガイめ。

キチガイで言えばユニットバスを考えた人って頭がおかしいと思う。「トイレと風呂を一緒にしちゃいましょう!!!」って会議の時間が真夜中過ぎるだろ。「逆にアリっかもすね」って言った後輩の表情見たかよ。引きつってたぞ。発想が食べながらうんこしましょう過ぎて、本当に意味が分からない。マジでやばい。昔住んでいた家がユニットバスでいっつもキレてた思い出がある。

七兆万円欲しいと思う。好きな時にマックと蕎麦くいたい。スマホを遠くにぶん投げたい。Twitterのアカウント消したい。なんでも受け入れればいいと思って、若い人の感性にくらったフリしているダサいおっさんに頭下げたくない、バイトを八時間もしてられない、ネタ書きたい、おもしろくないことで笑いたくない、清潔感欲しい、猫飼いたい、コーヒーをめんどくさがらず毎朝ちゃんと淹れたい、自分に嘘つきたくない、駐輪場に何日も自転車を置き忘れるのを辞めたい、遅刻しても許されたい、好きな時に帰りたい、人に怒りたくない、大喜利もっと強くなりたい、まともなことだけで悩みたい、ロイホのパフェ毎日食べたい、スイパラ行ってみたい、自意識を壊滅させたい、最強☆になりたい、映画もっとみたい、アニメもみたい、小説も読みたい、外側からぶち抜きたい、プルサイもっと売れて欲しい、ライブ慣れしたい、芸人の友達ほしい、節約したい、眠い、寝る。お馬鹿っ!!!!!





落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。