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落合のダッチワイフの日記 12月31日

日記を書くことにした。できるだけ、2021年は日記を書こうと思う。
2019年は毎日日記を書いたが、来年は見てくれている人のことをあまり気にしないようにしようと思う。ではなぜインターネットにあげるのかというと、その方がいいと思ったからだ。その方がいい理由を一つずつ言葉にして自分の中で片っ端から列挙していくと、結局インターネットに上げない方がいい理由が浮かび上がってくるだけだなと分かる。

マーニャと話した。マーニャとは母のことだ。自分のために書くと言っても、マーニャーとはなにかをわざわざ説明するくらいのことはする。
お金の話をすると彼女はいつも滅茶苦茶なことをいう。話の筋が通らなくなってくると、自分がとても可哀想な人間だということを主張だけになってしまう。そうやって今まで人に同情してもらいながらここまでやってきたのだろう。これ以上追い込むとどうなるのか気になって、とことこんやっても結局喚き散らすだけだったのでどうしようもない人だなと思った。悲しくなる。やはり彼女は金というものとの相性がものすごく悪い。「粋」と言えばそうなのかもしれない。理性的な部分を超越した行動を起こすのは彼女のもっとも魅力的なところでもあり、危険なところでもある。俺もしっかりとその部分を受け継いでいて、それは嬉しく思う。母親をコントロールする側になったことに気が付いた。悲しくなる。やはり彼女は金というものとの相性がものすごく悪い。「粋」と言えばそうなのかもしれない。理性的な部分を超越した行動を起こすのは彼女のもっとも魅力的なところでもあり、危険なところでもりる。俺もしっかりとその部分を受け継いでいて、それは嬉しく思う。母親をコントロールする側になったことに気が付いた。
人を納得させたりしようとする際の言葉ってなんであんなにみっともない感じがするのか。わからん。
母の兄に数年ぶりに電話をした。母の人間性について話した。概ね俺の見解は合っていた。話の流れで、理由の前に信じたいとかそういった無根拠なものを貫き通したいと思うのだが、それで合っているのか?とということを俺は彼に聞いていて、間違うときもあるけど合っている!と断言してくれて、とても嬉しかった。さっきからテレビで岡村靖幸のだいすきや恋とマシンガンが流れてる。好きだ。あとは、男ならば人を不安にさせない、みたいなことを言われた時に、俺はこれまで「男ならば」という考えを敬遠してきたことに気が付いた。「男ならば」という局面、それが大事になってくる、というか俺に足りない部分はそこら辺なんじゃないかと思う。動物的な本能みたいな話なのかなとか思う。「男ならば」という考えを人に押し付けないのであれば、自分に強いる必要がある局面は多くあるような気がする。

今日は一日中寝ていた。今度はピチカートファイブがテレビから流れ始めた。どういう選曲なんだろう。現在は18時22分だ。先日吉祥寺の古本屋で中原昌也の「知的生き方教室」という小説を発見した。ものすごく気になった。帰りに寄って買った。冒頭からとんでもない小説だった。「老婆を階段から突き落とした時に俺は文学的達成感を感じた」、みたいなことが書いてあって、山口君が教えてくれた小説家の保坂和氏さんが書いた本の中に、小説にはネガティブな磁場が発生するとあったのは思い出した。二人ともそれをよしとしていない。俺も同じく。
明日はスタバにいって、ネタをかきまくるのと、ポケモンをやるのと、アメリカンアニマルズをみよ~っと。
サニーデイサービスの「恋におちたら」が流れている。この曲めっちゃ好き。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。