外装の正体

「夏」の中に身を置くのは今年で31回目なので
もうそこそこ慣れた手つきで「毎度」とか言いながら、秋までまっすぐ線をひくことが出来てもいいだろうに、私は毎年、線をカックカックと蛇行させ、お約束のように起点すら見失う。

それでも「夏はフェードアウトするものだよね」と「夏」を形容するあらゆるものを身体全体に浴びておこうと、空を仰ぐ。

やる気もないくせに「夏だから、サーフィンとかしたいよね」などと言ってみる。

しかし、夏の全体部分を抱えてしまおうと思えば思うほど、どこからどこまでが「夏」というものなのかわからなくなるもので、夏の中で 夏を知ることはできない。

それは他の季節も然りだけれど、結局、何かの中にいる時、人っていうのは、自分を包んでいる外装の正体を理解できないようなのであった。

夏の中心を過ぎた頃、夏休み特有の、街にある黒い点点点の「点」と「点」の感覚が広くなった空気の中で、夏探しを再開しようとすると、もうすでにその立ち位置には、秋が立っていて、結局、夏の全容はいつまでたっても、ちゃんとつかめない。

こんなことをかれこれ20回程、繰り返しているのだけれど、ここまで来ると「夏」なんて、もはや幻想なのではないかとも思えてくる。

でも時々、それは夏ではない時に、真冬の頃に
または初春の頃に夏を捕まえた感触を感じる時があって、それは全く「夏」のいるはずのない季節に「夏」が全く存在しえない季節だからこそ感じる確かな手触りで目の前に現れる。

「夏」に触れずに、「夏」を思う時のみ夏はやってくるのかもしれないと良くわからない思考が止まらない。

こういうことは季節に限らず、時々世の中に起こるもの。

何かの中にいる時、人っていうのは自分を包んでいる外装の正体を理解できない。

#cakesコンテスト #エッセイ #夏

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