【鬱屈日記】この町を出ていきたい症候群
友人のすすめで「少年のアビス」という漫画を読んだ。閉鎖的な田舎の生活に浸っているうちに、人生に絶望した人々が地獄に落ちていく、ちょっとエッチな描写もある大人向けの漫画である。内容として僕の心に刺さる内容が多く、いろいろ考えさせられるものがあった。
本作品が描いているテーマに「地方ならではの強い閉塞感、虚無感、そしてそこからの脱出願望」がある。僕は「この町を出ていきたい症候群」と呼んでいる。
さて、僕の話をしよう。僕は実家とは離れた大学病院に勤務していた。もちろん医局に属していた。嫌なこともいっぱいあったけど、住みやすい医局で、これから大学院、助教、講師のコースをなんとなく描いていた。しかし、6年目だか7年目だか、家庭の都合でどうしても実家の近くに戻らなければならなくなった。ここで自分の医者としてのキャリアは一度終了した。
呼吸器内科医療不毛の地である田舎のとある病院に内科認定医を持っただけの自分が突っ込んでいくことになった。呼吸器内科の専門施設はそこだけだったからだ。それは、敵対している医局の病院だった。今考えても、死亡フラグしか見えない転勤であった。だけどそれ以外、地方で呼吸器内科で生きる方法がなかった。
自分は逆境でもそこはチャンスと考え、この田舎に役に立つよう自分の持ち合わせる実力を発揮しようと考えた。
そこが間違いの始まりだった。
当時は医師6年だか7年くらいなので、感染症、アレルギー、間質性肺疾患、癌診療も中途半端にこなせていた。そのせいだろうか、それはダンプカーのように仕事が落ちてきた。断っても断っても降ってきた。これは死んでしまうのではないかと思った。でも、やるしかなかった。外からやってきた僕は使えるのか、試されていた。今考えればそうでもないのかもしれないが。
やってやろうじゃないか。
当時は若いので、大学病院で行うようなエビデンスに基づいた方法を常に考えながら、仕事をした。たくさんした。すごい労力だった。あのときどれだけ臨床能力が伸びたのかは測り知れない。自分は当時専門医を3つ取得したが、すべてその職場で独学で取得した。いや、正確にはちょっとだけブログ「呼吸器内科医」の中の人の力を借りました。そのときは大変お世話になりました。仕事ください。
その一方で、人間が壊れるのは簡単であった。あっというまに体調を崩してしまった。なんでもやる、という方法は症例が多い施設では通用しそうにない。なんでもできるようで、なんにもできない医者が誕生してしまう。
Medtoolz先生の本にあるように、ここまでができる、そしてここからはできないと線引ができてこそ専門家であると実感した。
そこで僕は抗酸菌診療に最も力をいれることにした。正確にはお前は抗酸菌でもやってろという文脈で病院幹部に言われた。絶対に忘れないからな。それはさておき、地域では不可侵領域であり、自分も呼吸器感染症の新しい分野として興味があった。やってやろうじゃないか。
そうして、何年か仕事をした。地域では誰もが認めるエキスパートになった。だがしかし、思い知ってしまった。
抗酸菌の診療には「しっかりとした検査」が必要不可欠である。プラクティスを改めなければ学会(というか外)に出せるようなデータもない。診断基準すら曖昧なものすらあった。ただ昔からの検査を行い、昔からの治療をこなし、そこで完結している。悪くはないのかもしれないが、いったいいつの時代の医療をしているのだろうか。
標準的な検査を導入するのにとても苦労をしていた。昔からこれでなんとかなっているので、仕事が増える技師さんたちには嫌な顔しかされなかった。彼らは人事異動があり、配属先が変わっていく。どうせ転勤していく職場に労力をかけることは、やりがいのない仕事であった。
治療を行うにも一苦労であった。抱える症例がいっぱいとなり、標準治療がうまくいっている外来患者を他院で手伝ってほしい、何かあれば当院に紹介してもらえれば対応するからと頼んだ。しかし、専門外だからといって断られた。しまいには保険が通らないかもしれないからうちで診るのは嫌だと逆紹介すら拒否されたケースも度々あった。処方内容も、トラブル時の受診についても紹介状で懇切丁寧に言ってんだろうが。
そうして、多くの患者さんは80km以上の道のりを車に乗ってやってくるのだ。そしてあまりの人数を診るために、外来のキャパオーバーであった。というか無茶苦茶な人数。そして待ち時間が長いの大合唱である。いや、ナフコで菜っ葉の種を買うんじゃないんだから朝7時から並んで待つ必要もないとは思うんですが。
せめて人が来れば、と人集めに尽力した。IDATENという感染症の勉強会が若手医師に流行っており、いろいろな伝手をつかって田舎の地で開催する事になった。地域に無茶振りをしてしまったところは多数あり、今でも反省はしているが、なんとか成功?することができた。
しかし、何をやったって住む町に魅力がなかった。病院からコンビニまで車で行かなければならないような地域のハンディを超えて人を集める力が僕にはなかった。ファミリーマート1号店ができたときは、地元のアイドルがイベントを行ったくらいである。そのため、地域で感染症を行ってくれる人は現れなかった。
底なし沼にいるような日々だった。もがいては埋まり、もがいては埋まり。ずっとずっとずっとこのままこの生活が続き、いつかは沼に埋まって他人を引きずり込む人生を歩むのであろう。Facebookとかに自然いっぱいの写真上げて「イイね!」とかつけてもらって生きていくんだろう。
出ていかなかければ。素直にそう思った。自分になりに努力はした。しかし、どうにもならなかった。すべてが閉鎖的な社会に飲み込まれている。ここで年をとり、名を上げ、地域を変えていくとき俺は何歳になっているのだ。そのときに何かを変えていくような気持ちを持っているだろうか。そのとき自分は健康だろうか。僕は故郷が嫌いになった。
そうして全てを捨てて町を抜け出し、今の僕がいる。最新の医療を学び、治療をこなせているわけでもまったくない。なにかを目指し変化している社会に身を置くだけで、特に何をするわけでもないが、気持ちはとっても楽になった。
もうコロナのせいで2年位帰省してないけど、地元の友達にいつか会いたい。地元は嫌いだけど、友達は好きだ。あいつはダスキンの売上げ伸びたんだろうか。いつもの場所でスマブラやろうぜ。
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