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失われたおじさんの1年半

ウイルスと戦い(戦ったつもり)、ただ時が流れて1年半以上であろうか。実家に帰省もせず、ライブもなく、ステロイドやレムデシビルを投与しながら1年半が経ってしまった。それがなんだろう、今後も続くというのだ。

おじさんはともかく、このウイルスによる若い人への人生のダメージは計り知れない。自分が若者であったら、楽しい1年半が台無しである。いや、ごめん自分が同年代の頃は、1日中ネットゲームに集中して1年位無駄にしたことがあるので割と自分としては変わらないんだけど。しかし、僕のようなキモオタは例外であろう。

友人たち、恋人との旅行、アウトドア、食事。おしゃれをして街を歩くこと。ディズニーシーに行くこと。カフェ巡りをすること。お酒をのむこと。色んな人に会うこと。ぜーんぶこのウイルスが台無しにしてしまった。

クソおもんないよね。

40代の僕は、このウイルスと戦う人生を選んでしまった。まあ選んだつもりはなかったけどそうなっていた。
そういうのも、何か自分の中で進んでいないと仕方がなかった。残りが見えてきた人生、目の前のことに集中していないと、あっという間に年をとって終わってしまう。ウイルスに怯え、うんざりしながら関わらずに生きるやり方もあったけど、どちらが後悔しないかを選んだつもりだ。

しかし、終わりがなく共存していくしかないのであれば、それをライフワークにするかどうかを選ばなければならない。この変異するウイルスをライフワークにするかどうか。

自分は以前は結核の治療をライフワークとしてきた。COVID-19には少しだけそれに通じるものはある。
このウイルスに感じていることは、治療薬の見つからない時代の結核の流れから現在までを、ものすごい速さでみているようだ。治療薬に決定的なものがなく、自らの体力での予後が大きいこと。予防効果がないわけではないが、重症化を予防できるワクチンに頼っていること。Point of care testingとしてPCRがスタンダードになっていること。
ここから人類は効果の高い治療薬の開発を急ぎ、効果の高い予防手段を開発し、いつの日か街のクリニックで「はいコロナですねー、これ出しておきますねー、会社や学校は○日まで休んでくださいね」などという幸せな未来がやってくるのがウィズコロナという意味で終息であろうと思う。

そうなるまでにいったい何年かかるのかだろうか。
それをライフワークとして40代を費やし、いつか重い病気にかかり死を迎える人生なのか。それで自分は幸せだったのだろうか。

この疾患の治療を1年半続けていくうちに、今まで自分がやってきた分野の一部を忘れそうになった。現在進行系でそうかもしれない。
治療としては極めて単純で、感染症の治療を頑張るだけである。だんだん、そういった即時的なものの考え方をしてしまうようになった。

僕は感染症内科医でもなく、呼吸器内科医だったんだけど、なんだかかんだで宙ぶらりんになってしまった。だからしがみつくように自分が出会った症例を勉強し、知識を満たして、手に入れた呼吸器内科の知識をアウトプットする日々をくりかえすしか無い。そうしたかったのに、そうやってるのにとても虚しい。

虚しいのはきっと、本当にやりたいことではなかったんだろう。そういや何がしたかったんだっけ。コロナの前に何か仕事でやりたいことはなかったっけ。いや、そもそも仕事じゃなくても何かやりたいことがあったっけ。

考えたけど何も思い出せなかった。なんにもなかった。

自分がおじさんだからであろうか。
おじさんとはそういう生き物なのだろうか。
おじさんはどこに行ってもキモいし、
楽しかったら気持ち悪い。
怒っていたらみっともないし、
しょんぼりしているくらいが丁度いい。

ああ、こうやって年を重ねていくしかないのだろう。

僕が祈ることは、家族、親戚、友達、職場の仲間達、患者さん。
自分が関わった人たちがみんな幸せになりますように。
ただそれだけです。


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