「不自由を選ぶ」
お茶には淹れ方があり、飲み方がある。作法、マナーを守るということは、それに抗わず、不可逆的に不自由を選ぶということである。門外漢がその道の様式美について口を挟むことは慎みたい。ただ、ペットボトル飲料がどこの店にも規則正しく積まれている様を見ると、ペットボトルの構造はいたってシンプルで、キャップの開閉に注視すればよい。後処理は、所定の仕方に従えばよいのだが、不法投棄が後を絶たない。深刻な環境問題に発展している。モラルハザードの身近な一例ではないだろうか。茶器から湯呑み、そしてペットボトルに形を変えた結果、近代的利便性を手に入れ、東洋的精神性を手放した。この代償を払い続けることになる。共同体の中で、お茶の時間も設けるのが困難な程、苛烈な労働が行われている。世代関係無く、話し合いの中で秩序を形成してきた空間を再構築するのに、お茶を淹れる人が居て、お茶を飲む人が居る、その人間関係の中に対話という形式として礼儀作法が介入しなければ、モラルハザードの抑止にはならない。お茶の時間には、経口摂取しているのだから、口が開く。それはもう長い長いマシンガントークの中に、何か一つぐらいは教訓めいた金言を見つけ出すことが出来るだろう。マシンガンの的になる不自由を選ぶこと自体が、既に教えを受けているのだ。お菓子の甘さとお茶に含まれるカフェインの覚醒作用により、閉じていた自分の口までもが勢いよく開き、饒舌に語り出す。眠らせていた筈の地元の方言が我慢出来なくなるくらいに。
そくらてつお